自ら演劇の台本を書き、さまざまな種類のパフォーミングアーツを自腹で行き続ける佐藤治彦が気になった作品について取り上げるコメンタリーノート、エッセイ。テレビ番組や映画も取り上げます。タイトルに批評とありますが、本人は演劇や音楽の評論家ではありません。個人の感想や思ったこと、エッセイと思って読んで頂ければ幸いです。
パラドックス定数 第28項 「HIDE AND SEEK」
作・演出 /野木萌葱
出演/植村宏司 西原誠吾 井内勇希 今里真 酒巻誉洋 小野ゆたか
加藤敦 生津徹 大柿友哉 平岩久資
江戸川乱歩と横溝正史と夢野久作。
昭和の始まり、東京下町、文学界の、異端児三人。
まるで煙管の煙のような、現実と虚構の境界線。
その狭間で繰り広げられる、これは創造を巡る物語。
「確かにパラドックスに満ちた上演」
パラドックス定数の噂は何年も前から轟いていて、実際何回か観に行こうとチケットの予約をしたり、チケットを買ったりしたもののその都度観に行けなくなってしまったので今回が初見である。評判の作品の再演である。
演出は安定していた。なるほど!とも思った。作品も独特の世界観と綿密な取材に基づいた作品で高く評価されるのが分かる。3人の昭和の作家とそれらが生みだしたキャラクター6人が生みだす現実と幻想が交差する万華鏡的な話。そこに編集者が絡む。なるほど!である。
もっとも僕だったらば編集者をもっと狂言廻し的な立場に追いやっておきたかった。というのはラストで編集者は文学者に、「アマデウス」のサリエリのように食って掛かるのである。クリエイター側に受容者代表として食って掛かるのである。越えられないその境界を嘆くのである。ここは誰もが共感できる世界なのである。ここを支点にこの作品は紡がれていっていいくらいなのだ。
しかし、それならば、もう一工夫欲しい。というのは、この作品にはその越えられないはずの境界を越えた人間が登場するのだ。横溝正史である。この作品で横溝は当初編集者として登場しているのだが、この作品では、境界を越えていく過程、編集者で終わる男との関わりの変化がほとんど書かれていないのが残念でたまらない。
そうなると作品全体が大幅に変わるわけだけれども。
この作品には、現在の小劇場界注目の若手俳優が大挙して出演している。しかし、それは成功したであろうか?
僕はこの作品を見ながら、未筆の僕の作品企画を思い出した。
一時期、この手の作品を書こうとしたことがあるからだ。
それは自分自身のことでもある。
ご存知のように僕は現代を代表する純文学作家・島田雅彦と共著を持つ男である。一時期、良く飲んだし、取材旅行で何カ国も旅もした。その流れで、島田の苦悩と喜び、生活者として生きていかなくてはならない側面と芸術家として生き抜きたい側面を眺めてきた。島田と出会う前から、僕は島田の作品と出会っていた。多くの人が僕を彼の世界に引き込んだ。
出会う何年も前から作品を通して島田と相当対峙したのだ。島田は同世代の作家とだけでなく、常に夏目漱石、三島由紀夫、ドストエフスキーと正面から向き合った、向き合ってる。そして、音楽。
僕はそれまでも読んできたけれども島田と知り合って、再度、これらの文豪の世界と対峙することになる。彼らを眺めるだけでなく、どっぷり浸かって見た。それは、島田の世界を旅するために、漱石も三島もドストエフスキーも必要だからだ。
島田は20代から現代を代表する若き作家のアイコンとして、その美貌もあって常に注目される存在であった。芥川賞最多ノミネート作家。だがついに受賞しないまま、いまや選考委員である。加齢とともに立場が微妙に変わっていくさまも本当に面白かった。そして、島田は孤独である。島田の作品に決定的な刺激を与えてくれる暴力的な存在が廻りにいるとはいえない。廻りに絡む人々は島田から欲しがるが与える存在ではない。だから、島田の発言はほとんど変化しない。もうテレビでの発言も書くものもリフレインである。ミーハーなアレレな人ばかりの取り巻きを含めて芸術家の生き様は苦悩にも満ちていて面白い。書く材料は山ほどあったのだ。
しかし、僕は書いていない。なぜか?僕の廻りには、それを演じられる役者がいないからだ。
野木さんは、この作品を上演するにあたって、その問題はどうしようと思ったのか?脚本を発表するだけでなく、演劇作品として上演するにあたって、野木さんの廻りの役者で文豪を演じさせるということについてどう考えたのかだろうか?
演技が良かった俳優はいる。例えば、酒巻誉洋、例えば、生津徹。例えば、加藤敬。例えば、…。評判のいい野木さんの作品だから、小劇場界で評価の高い役者が集結している感もあるキャスティングだ。しかし、だ。この野木さんの本は、プリズムのようにちょっと光の当て方が変わるだけで変幻自在に変化していく演技を求められる難しい台本だ。俳優は自分の立ち位置を把握するのも一苦労だろう。リアル感一本で押し通せるものでもない。何しろ、明智や江戸川乱歩、金田一耕助、横溝正史らを演じなくてはならないのだ。
それは、野木ワールドが放つ光に頼って演じるだけでなく、自らが光を放たないと対抗できない。それを若い小劇場の役者が体現できていたのかというと、残念ながら成功したとはいえない。
いい方を変えてみよう。過去、文豪の小説の強烈な登場人物に、映像で舞台で名優達が格闘し演じてきた(しかし、多くが敗北した)そのキャラクターに対抗できただろうか?
僕はこの1ヶ月、日本では平成中村座や文学座、ニューヨークでも名優の演技を山ほど見てしまったので、どうもハードルが高すぎるのだろうと思うけれども、僕がこの1ヶ月で見た俳優と同じレベルの人達がやるべき役柄だと思うのだ。
僕は自分の感性と想像力を総動員して舞台上の人物を文豪らと捉えようと試みた。が、それが、野木さんの世界を観るのに必要な切符だからだ。しかし、その幻想の世界についぞ引き込まれる事はなかった。僕はここに小劇場演劇の限界を見てしまったのだ。そして、自分は書かなくて良かったなと思った。2012年4月21日@三鷹市芸術文化センター星のホール
作・演出 /野木萌葱
出演/植村宏司 西原誠吾 井内勇希 今里真 酒巻誉洋 小野ゆたか
加藤敦 生津徹 大柿友哉 平岩久資
江戸川乱歩と横溝正史と夢野久作。
昭和の始まり、東京下町、文学界の、異端児三人。
まるで煙管の煙のような、現実と虚構の境界線。
その狭間で繰り広げられる、これは創造を巡る物語。
「確かにパラドックスに満ちた上演」
パラドックス定数の噂は何年も前から轟いていて、実際何回か観に行こうとチケットの予約をしたり、チケットを買ったりしたもののその都度観に行けなくなってしまったので今回が初見である。評判の作品の再演である。
演出は安定していた。なるほど!とも思った。作品も独特の世界観と綿密な取材に基づいた作品で高く評価されるのが分かる。3人の昭和の作家とそれらが生みだしたキャラクター6人が生みだす現実と幻想が交差する万華鏡的な話。そこに編集者が絡む。なるほど!である。
もっとも僕だったらば編集者をもっと狂言廻し的な立場に追いやっておきたかった。というのはラストで編集者は文学者に、「アマデウス」のサリエリのように食って掛かるのである。クリエイター側に受容者代表として食って掛かるのである。越えられないその境界を嘆くのである。ここは誰もが共感できる世界なのである。ここを支点にこの作品は紡がれていっていいくらいなのだ。
しかし、それならば、もう一工夫欲しい。というのは、この作品にはその越えられないはずの境界を越えた人間が登場するのだ。横溝正史である。この作品で横溝は当初編集者として登場しているのだが、この作品では、境界を越えていく過程、編集者で終わる男との関わりの変化がほとんど書かれていないのが残念でたまらない。
そうなると作品全体が大幅に変わるわけだけれども。
この作品には、現在の小劇場界注目の若手俳優が大挙して出演している。しかし、それは成功したであろうか?
僕はこの作品を見ながら、未筆の僕の作品企画を思い出した。
一時期、この手の作品を書こうとしたことがあるからだ。
それは自分自身のことでもある。
ご存知のように僕は現代を代表する純文学作家・島田雅彦と共著を持つ男である。一時期、良く飲んだし、取材旅行で何カ国も旅もした。その流れで、島田の苦悩と喜び、生活者として生きていかなくてはならない側面と芸術家として生き抜きたい側面を眺めてきた。島田と出会う前から、僕は島田の作品と出会っていた。多くの人が僕を彼の世界に引き込んだ。
出会う何年も前から作品を通して島田と相当対峙したのだ。島田は同世代の作家とだけでなく、常に夏目漱石、三島由紀夫、ドストエフスキーと正面から向き合った、向き合ってる。そして、音楽。
僕はそれまでも読んできたけれども島田と知り合って、再度、これらの文豪の世界と対峙することになる。彼らを眺めるだけでなく、どっぷり浸かって見た。それは、島田の世界を旅するために、漱石も三島もドストエフスキーも必要だからだ。
島田は20代から現代を代表する若き作家のアイコンとして、その美貌もあって常に注目される存在であった。芥川賞最多ノミネート作家。だがついに受賞しないまま、いまや選考委員である。加齢とともに立場が微妙に変わっていくさまも本当に面白かった。そして、島田は孤独である。島田の作品に決定的な刺激を与えてくれる暴力的な存在が廻りにいるとはいえない。廻りに絡む人々は島田から欲しがるが与える存在ではない。だから、島田の発言はほとんど変化しない。もうテレビでの発言も書くものもリフレインである。ミーハーなアレレな人ばかりの取り巻きを含めて芸術家の生き様は苦悩にも満ちていて面白い。書く材料は山ほどあったのだ。
しかし、僕は書いていない。なぜか?僕の廻りには、それを演じられる役者がいないからだ。
野木さんは、この作品を上演するにあたって、その問題はどうしようと思ったのか?脚本を発表するだけでなく、演劇作品として上演するにあたって、野木さんの廻りの役者で文豪を演じさせるということについてどう考えたのかだろうか?
演技が良かった俳優はいる。例えば、酒巻誉洋、例えば、生津徹。例えば、加藤敬。例えば、…。評判のいい野木さんの作品だから、小劇場界で評価の高い役者が集結している感もあるキャスティングだ。しかし、だ。この野木さんの本は、プリズムのようにちょっと光の当て方が変わるだけで変幻自在に変化していく演技を求められる難しい台本だ。俳優は自分の立ち位置を把握するのも一苦労だろう。リアル感一本で押し通せるものでもない。何しろ、明智や江戸川乱歩、金田一耕助、横溝正史らを演じなくてはならないのだ。
それは、野木ワールドが放つ光に頼って演じるだけでなく、自らが光を放たないと対抗できない。それを若い小劇場の役者が体現できていたのかというと、残念ながら成功したとはいえない。
いい方を変えてみよう。過去、文豪の小説の強烈な登場人物に、映像で舞台で名優達が格闘し演じてきた(しかし、多くが敗北した)そのキャラクターに対抗できただろうか?
僕はこの1ヶ月、日本では平成中村座や文学座、ニューヨークでも名優の演技を山ほど見てしまったので、どうもハードルが高すぎるのだろうと思うけれども、僕がこの1ヶ月で見た俳優と同じレベルの人達がやるべき役柄だと思うのだ。
僕は自分の感性と想像力を総動員して舞台上の人物を文豪らと捉えようと試みた。が、それが、野木さんの世界を観るのに必要な切符だからだ。しかし、その幻想の世界についぞ引き込まれる事はなかった。僕はここに小劇場演劇の限界を見てしまったのだ。そして、自分は書かなくて良かったなと思った。2012年4月21日@三鷹市芸術文化センター星のホール
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プロフィール
HN:
佐藤治彦 Haruhiko SATO
HP:
性別:
男性
職業:
演劇ユニット経済とH 主宰
趣味:
海外旅行
自己紹介:
演劇、音楽、ダンス、バレエ、オペラ、ミュージカル、パフォーマンス、美術。全てのパフォーミングアーツとアートを心から愛する佐藤治彦のぎりぎりコメントをお届けします。Haruhiko SATO 日本ペンクラブ会員
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