佐藤治彦のパフォーミングアーツ批評 佐藤信 構成・演出 渡辺美佐子 主演 シェクスピア原作「リア」 忍者ブログ
自ら演劇の台本を書き、さまざまな種類のパフォーミングアーツを自腹で行き続ける佐藤治彦が気になった作品について取り上げるコメンタリーノート、エッセイ。テレビ番組や映画も取り上げます。タイトルに批評とありますが、本人は演劇や音楽の評論家ではありません。個人の感想や思ったこと、エッセイと思って読んで頂ければ幸いです。
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極みまで削ぎ落とし悲劇としての作品の本質に肉迫した舞台は、日本の表現手法を駆使したもの。83才の渡辺美佐子は「化粧」と並ぶ代表作を生み出した。

 最初に申し上げておきたいのは、よく芝居を作る人たちの中に、今回の芝居のテーマはなんていう人や質問したりする人がいて、まるで、それを伝えることが芝居の目的の様に思ってる人がいるが、私に言わせればお笑いぐさだ。言いたい事があったら、直接言えばいい。回りくどい方法でテーマを伝えるなんてバカバカしい。特に戦争反対とか、親子愛とか、もちろん、英霊に感謝なんてテーマの芝居もアレレなのである。
 例えば、ソビエト時代のショスタコーヴィチは、当局からソビエト共産党のプロパガンダ的テーマで作曲を強制されてあたかもそれに乗っかったような作品も書いた、と言われるが、本質は多面的、多層的で、表面上のそんな仕草は浅薄な感性と知性しか持ち合わせない人の為のもので、もう少しきちんと作品に当たる人間は、何とシニカルな〜!くらいにしか思わないものである。
 芸術なんて高邁なことを言わなくても、すべての作品は、造り手と受け手の協業によって成立するものだ。受け手によって作品は万華鏡のように変化する。それでいいのだ。
 芝居にテーマなんか必要ない。いいたい主張もいらない。ストーリーなんかもっと要らない。ただ、そこに表現があり、嘘でない人間ドラマが創出していればいいのだ。あとは受け手の問題である。…ちょっと言い過ぎたかな。
 
 さて、言わずとしれたシェイクスピア悲劇の代表作である。
 今年の始めに大病から復活した江守徹の「リア王」を観た。よほど不安だったのだろう。上演をキャンセルしても大けがにならない文学座の稽古場での上演。耳にはイヤホンが入っていて、プロンプ万全体制での上演。何だよ!ではない。これが良かったのだ。江守徹そのものが狂気の王とだぶったからだ。ずるいのだが演劇は利用できるものは何でも利用していい。

 私のリア王観劇歴は幾つかあるが、書いておかなくてはならないのはロイヤルシェイクスピアカンパニーの役者と真田広之、蜷川幸雄演出での「リア王」だ。ナイジェルホーソンというリア王を演じる為に生れてきたような老俳優を使っての上演。こういう体制を作って上演すると、もう誰も批判できない。誉め称える新聞評で埋め尽くされた。僕はそんなにスゴいのだろうか?と思ったけれど。さらに、リア王は、例えば黒澤明が「乱」という映画に、ハーウッド作「ドレッサー」などスピンオフな名作も山ほどある。
 その演劇の権威の極みのような作品を佐藤信は切り刻んだ。上演すると3時間ほどかかる作品を1時間15分にした。作品を解体し再構成したのだ。浮き上がってきたのは作品の本質だった。もう見尽くしたと思っていた作品の本質がやっと見えてきたのだ。

 世界中で上演される「リア王」はシンデレラのように上演される。親不孝な2人の娘の老人いじめ。唯一親を大切にする三女は死に、老人も狂って死んで行く。おお、何と悲劇なのか!そう多くの人が思う。「歳は取りたくないものね」。そんな作品なんだろうか?それじゃホームドラマだ。渡る世間…になってしまう。そういう私も、老いることとか、人は欲得で生きてるもんだから、親娘だからといって、全部領地を渡しちゃなあ〜、ああやられるよ、みたいな、ホームドラマの感覚でこの悲劇をみてしまう。っていた。
 ところが、佐藤信は台詞以外もミニマムにした。登場人物の造形も徹底的に削ぎ落としたのだ。道化も娘達もまるで能か狂言の登場人物のごとく。色がついていない。こうして、私はこのリア王の物語を始めて先入観を捨てフラットな立場で見られたのだ。
 そうしてみると、娘達の主張もそれなりに筋が通っているし、リア王の身勝手さも見えてくるし。何だろう。登場人物との距離感が均等になった。何より、私には、リア王こそが道化よりも、道化に見えてしまったのだ。
 老いてなおも人間の本質をつかんでいない。自分中心にものごとを見ることしかできない。そして、敢えてヘンテコな意地を貫く為に墜ちていってしまう。そんなことよりも、もっと大切なものはあるはずだったし、だいたい廻りの人まで巻込んでしまった。それなのに、自分のことばかりを嘆く。娘のことを嘆いている様で自分は何て不幸なんだという視点でしか生きられない、悲劇を見いだした。
 ホームドラマ的な視点から、リア王の悲劇が初めて見えたのだ。悲劇は廻りの人たちによってもたらされたのではなく、リア王自身によって引き起こされかき回され収束して行ったのだ。そして、最後までそれに気がつかない、悲劇。
 舞台は削ぎ落とされているからこそひとつひとつが浮き彫りにされる。
会場に入ると黒である。わざわざ光が差し込んでいるがごとくの、揺らぎの映像。最後まで使われない椅子が向こう側においてあったりする。そこに、観客がいるような空気が出てくる。黒い島のような舞台があり、そこにも椅子がある。玉座のようであるが、向こう側の椅子と同じなので観客のようでもある。物語をぐるりと囲んで見ているような錯覚がある。
 物語が始まると、向こう側には椅子が次々と落ちてくる。死がつきまとう芝居なので三途の川の石のようでもあり、バリケードのようでもある。照明は決して押し付けるような強さを持たずに極めて慎重に色合いを変えて行く。これらの美術、照明、映像が見事なのである。
 渡辺美佐子の演技は、いや渡辺は復活したと言いたいくらいに強烈である。台詞はフラットで、そこに意味合いのある感情を上塗りしたりしない。そのまま、台詞を届けることしか彼女はしない。彼女の代表作の化粧を20代のころ。もう30年以上前に見て、芝居ってすごいなあと思った。それ以来、渡辺の舞台はいろいろと見たけれど、化粧を上回るもの、化粧に肉迫できるものはひとつもなかった。今回のものはスゴい。渡辺は俳優人生の後半、83才ににして、やっと次の代表作に出会ったのだ。
 今回はキャスティングも見事だった。女性の渡辺にリアの役。おどけることとは無縁の普通の常識人のような田中壮太郎に道化。男の植本潤(この人は、花組芝居を代表する女形である。普通の男が女を演じる人である。女の役柄なのにスキンヘッドというのもいい)。つまり、老王とも、娘達とも、道化とも、元々は無縁の名うての俳優たちに、演じさせたのである。面白い。だからこそ、私は等距離で、ヘンテコな役に対するイメージを削ぎ落として、見ることができたのである。
 暴風雨はリアの心の中でのそれの方が、荒野の嵐よりも圧倒的だったはずだ。だから、そんなものはこの舞台にはない。
 もう一度申し上げるが、芝居は万華鏡というかプリズムのようなもので、受け手によって、その感想はそれぞれでいいと思う。劇評を仕事にする人たちは勝手に評価して、いいとか悪いとかすればいいが、観客はそんなものは要らない。私の隣のオバさんは、5月にしては暑い中劇場に来たからか。心地よい空調の中で眠っていた。ほとんど見ていないが、渡辺さんは元気でスゴいわねえと言っていた。それも、また事実であり、そういう観劇があってもいいと思うのだ。
 
 切り刻まれたシェイクスピアは、何と言ってるだろうか、ニヤッとして、なるほど、これもありだなあ。ワシの書いた作品はスゴいなあと自画自賛しているのではないか。この能やら歌舞伎やらさまざまな日本演劇のエッセンスがあるからこそできる、シェイクスピア劇であるけれども現代日本演劇の、日本的表現を駆使した作品。
 あのね、野田さんも蜷川さんも三谷幸喜もいいけれど、こういう作品こそ税金を使って、ロンドンとパリとベルリンとモスクワの人に見せてもらいたいと思う。それが国策ってもんでしょ。
 欧州の教養のある人たちは思うはずだ。日本の文化は奥深い。今度歌舞伎や能をみてみようか、盆栽も生け花も日本庭園も知りたい、着物を生活に根ざした美術作品なのではないか、日本食は哲学である、となるはずなのだ。
 佐藤信の「リア」はヨーロッパの文化の中心部と融合した、極めて日本的な作品なのだから。文化庁さん、国際交流基金さん、お金を出すべきなのはこれです。

2015年5月31日 座高円寺1


補足;舞台は1時間20分弱で3部構成になっている。2幕だけ渡辺は舞台に出ていない。渡辺の小休憩の意味合いもあるのだろうと思う。そこでは、2人の男優が劇中劇なのか、芝居はしているが、テンションをリセットするための心の休憩なのか、リアと関係あるけれども、役柄から抜け出して、ほとんど俳優というよりも素の人間に近いところで演じる時間がある。自由で軽くていいと思う人もいるかと思うけれど、私はあまり好きでない。ちょっとやり過ぎな感じがする。あれなら、10分間の休憩の方がいいのではないかと思うくらい。まあ、好き嫌いなので。
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プロフィール
HN:
佐藤治彦 Haruhiko SATO
性別:
男性
職業:
演劇ユニット経済とH 主宰
趣味:
海外旅行
自己紹介:
演劇、音楽、ダンス、バレエ、オペラ、ミュージカル、パフォーマンス、美術。全てのパフォーミングアーツとアートを心から愛する佐藤治彦のぎりぎりコメントをお届けします。Haruhiko SATO 日本ペンクラブ会員
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