佐藤治彦のパフォーミングアーツ批評 演劇 忍者ブログ
自ら演劇の台本を書き、さまざまな種類のパフォーミングアーツを自腹で行き続ける佐藤治彦が気になった作品について取り上げるコメンタリーノート、エッセイ。テレビ番組や映画も取り上げます。タイトルに批評とありますが、本人は演劇や音楽の評論家ではありません。個人の感想や思ったこと、エッセイと思って読んで頂ければ幸いです。
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文学座「食いしん坊 万歳!」を紀伊国屋サザンシアターで観劇した。正直言うと、今さら正岡子規の評伝ものを見たいとは思ってなかった。午後6時40分ごろ、劇場について上演時間を見たら、2時間40分(15分の休憩含む)にあると知って、観劇した日が朝5時から働いて疲労困憊だったので、8時5分の休憩時にこっそり退散しようかとまで考えていたのだ。
 じゃ、何でそんなことまでして劇場に行ったのか?と言われたら、それは久々に、新橋耐子さんの名前が出演者にクレジットされていたことが第一である。昨年、とうとう平幹二朗さんまで亡くなられて、もう舞台で見たい役者がほとんどいなくなってしまった(歌舞伎の若手で良いのは何人かいるけれど)なあと思っていたのです。


 20代の頃から新橋さんの芝居は、杉村春子さんとの共演で何本も見てきたけれど、文学座で杉村さんとの舞台の時には、アンサンブルを大切にされていて、文学座の俳優陣のおひとりという感想しか持っていなかったのだけれど、これも20代のころ、初めて井上ひさしさんの芝居を見たのが、「頭痛肩こり、樋口一葉」で、その舞台で花蛍というお化けに扮した新橋さんのスゴかったこと。面白かったこと、哀しかったこと。その後は意識していろんな外部公演、例えば、蜷川幸雄さんやら、最近ではケラリーノサンドロヴィッチさんの演出の舞台でも見たのであります。
 ちなみに、井上芝居は、これがきっかけで見始めたわけですが、なかなかこれ以上に面白いのに出会えなかった。僕はこれと渡辺美佐子の演じた「化粧」かなあ。あれにも泣いた、この二本は芝居ってすごいなあと心から思った作品である。
 誰が読んでいるか分らないSNSなのでさらっと書くが、遅すぎた青春時代?のごとく、演劇に全精力を傾けていた40代のころ。
たまたま、新橋さんが、僕が出してもらったフランス翻訳物の二人芝居をたまたま見て下さって、そして、褒めてくれたのです。それだけでなく、その芝居に折り込んでいた僕のやっていた演劇の出演者募集のチラシを見て、出ると言ってくれたのです。ということで、僕の作演出の舞台にまで出て下さった。これはもの凄いことです。2010年ことでした。
 40も過ぎて演劇なんかやるもんだから、四面楚歌の十乗みたいな状況で本当に辛かった。そんな時に、僕の演技を認めてくれた。その演技については、テアトロという歴史ある演劇雑誌でも褒めてもらった。あの辛い時期の数少ないいい思い出です。
 「相寄る魂」というギィフォワシという人の二人芝居だったのですが、相手役が読売演劇大賞にノミネートまでされた南谷さんというスゴい人だったことが良かっただけだと思うのですけれど。そういう経験をさせてもらったのです。
 もうひとつ、この芝居には佐野和正さんの名前もクレジットされていた。別に交流があるわけではないのですが、これも10年近く前のこと、文学座のサマーワークショップを受けたことがあって、亡くなった演出家の高瀬さんがやったものだったのだけれど、そこのアシスタントのような立場で佐野さんがいて、稽古場にいる時の雰囲気がものすごく真摯で強い印象に残った。その後で、佐野さんが出る文学座の芝居は何本か見せてもらったのだけれど、あまり大きな役ではなかったこともあったのか、やはりアンサンブルのひとりとして出演されていた。今回は主役。正岡子規の役をやるらしいというので、ぜひ見てみたいと思ったのです。
まだ読んでくれていますか?ありがとうございます。
この芝居、始まったらこれが面白い。正岡子規の話なんだけれど、そこから離れて、ひとりの人間の生き様というところに本はフォーカスされていく。芝居はこうじゃなくちゃね。 
 肉体的に生きる力をどんどん剥ぎ取られながらも、前向きに生きて行く男と、息子の死を受け入れながらも前向きに生きて行く母親。新橋さんは、この男の母親にふさわしい人物像を作り上げ、佐野さんは、どんどん剥ぎ取られて行く生に負けまいと食い下がりながら生きて行く。その凄まじさ。それが、テンポ良く重いニヒリズムで描くこと無く、すすめて行くものだから。
終幕近くの宴会シーンに至るまでの生がもぎ取られ、それに抗う男の生き様、しかし、最後には全てを受け入れるという、その演技の見事さ。それに寄り添う明治の、いや、それ以前の時代も知ってる誇り高い士族の母親。その所作、その声のトーン、間合い。見事というしかない。母息子での臨終シーンの新橋さんの子守り歌。歌うではなく、語るでもなく、何だろう、シャンソンですな、あれは!
所作は、もう新派以外では、美しい和物の振る舞いは見られないだろうと思っていたら、新橋さんが芝居の中心にいるからか、見事でね。
いやあ、面白かったです。素晴らしかったです。
これ、文学座の新しい代表作になる可能性もある見事な作品となっていました。

2017年2月18日@紀伊国屋サザンシアター
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神よ、あなたは本当にいるのですか?

「アマデウス」のサリエリのように思います。




父、団十郎を若くして天に奪われ、そして、今度は愛妻まで恐怖の渕に。ああ、今の歌舞伎界を背負っている、希望の星、海老蔵さん。私は祈るしかできないが、涙が出てたまらないです。あなたの芝居でどれほど楽ませてもらったか。それだけでない。あなたの芝居にかける姿勢は、伝統を重んじながらも常に革新していこうというチャレンジ性に富んでいて、私はこの若き青年の生き方にどれほど…。そのチャレンジも、話題性作りとか、商売っけとか、そんな低級ではありません。たとえば、あなたがルテアトル銀座での興行で挑戦した、歌舞伎でありながら、現代口語演劇の発声や演劇手法を取り入れた時の驚き。それを歌舞伎芝居のなかで見事に昇華させ、いまや、あの歌舞伎座での芝居でも、時々、披露するようになった。私はどれほど驚いたか。大演目に活き活きとした現代演劇の息吹を注入したのは、あなたです。
 大名跡を背負うことに負けていない、越えて行く人物は今もいるんだと。

 それにしても、今でも悔しい。お父さんとの「オセロ」が見られなかったことがどれだけ残念だったか。
 幸いなことに来月の歌舞伎座の入場券を手にしています。しかし、きっと涙なくしては見られないでしょう。

どうか、奥様のご快復を心よりお祈りします。

2016年6月9日

極みまで削ぎ落とし悲劇としての作品の本質に肉迫した舞台は、日本の表現手法を駆使したもの。83才の渡辺美佐子は「化粧」と並ぶ代表作を生み出した。

 最初に申し上げておきたいのは、よく芝居を作る人たちの中に、今回の芝居のテーマはなんていう人や質問したりする人がいて、まるで、それを伝えることが芝居の目的の様に思ってる人がいるが、私に言わせればお笑いぐさだ。言いたい事があったら、直接言えばいい。回りくどい方法でテーマを伝えるなんてバカバカしい。特に戦争反対とか、親子愛とか、もちろん、英霊に感謝なんてテーマの芝居もアレレなのである。
 例えば、ソビエト時代のショスタコーヴィチは、当局からソビエト共産党のプロパガンダ的テーマで作曲を強制されてあたかもそれに乗っかったような作品も書いた、と言われるが、本質は多面的、多層的で、表面上のそんな仕草は浅薄な感性と知性しか持ち合わせない人の為のもので、もう少しきちんと作品に当たる人間は、何とシニカルな〜!くらいにしか思わないものである。
 芸術なんて高邁なことを言わなくても、すべての作品は、造り手と受け手の協業によって成立するものだ。受け手によって作品は万華鏡のように変化する。それでいいのだ。
 芝居にテーマなんか必要ない。いいたい主張もいらない。ストーリーなんかもっと要らない。ただ、そこに表現があり、嘘でない人間ドラマが創出していればいいのだ。あとは受け手の問題である。…ちょっと言い過ぎたかな。
 
 さて、言わずとしれたシェイクスピア悲劇の代表作である。
 今年の始めに大病から復活した江守徹の「リア王」を観た。よほど不安だったのだろう。上演をキャンセルしても大けがにならない文学座の稽古場での上演。耳にはイヤホンが入っていて、プロンプ万全体制での上演。何だよ!ではない。これが良かったのだ。江守徹そのものが狂気の王とだぶったからだ。ずるいのだが演劇は利用できるものは何でも利用していい。

 私のリア王観劇歴は幾つかあるが、書いておかなくてはならないのはロイヤルシェイクスピアカンパニーの役者と真田広之、蜷川幸雄演出での「リア王」だ。ナイジェルホーソンというリア王を演じる為に生れてきたような老俳優を使っての上演。こういう体制を作って上演すると、もう誰も批判できない。誉め称える新聞評で埋め尽くされた。僕はそんなにスゴいのだろうか?と思ったけれど。さらに、リア王は、例えば黒澤明が「乱」という映画に、ハーウッド作「ドレッサー」などスピンオフな名作も山ほどある。
 その演劇の権威の極みのような作品を佐藤信は切り刻んだ。上演すると3時間ほどかかる作品を1時間15分にした。作品を解体し再構成したのだ。浮き上がってきたのは作品の本質だった。もう見尽くしたと思っていた作品の本質がやっと見えてきたのだ。

 世界中で上演される「リア王」はシンデレラのように上演される。親不孝な2人の娘の老人いじめ。唯一親を大切にする三女は死に、老人も狂って死んで行く。おお、何と悲劇なのか!そう多くの人が思う。「歳は取りたくないものね」。そんな作品なんだろうか?それじゃホームドラマだ。渡る世間…になってしまう。そういう私も、老いることとか、人は欲得で生きてるもんだから、親娘だからといって、全部領地を渡しちゃなあ〜、ああやられるよ、みたいな、ホームドラマの感覚でこの悲劇をみてしまう。っていた。
 ところが、佐藤信は台詞以外もミニマムにした。登場人物の造形も徹底的に削ぎ落としたのだ。道化も娘達もまるで能か狂言の登場人物のごとく。色がついていない。こうして、私はこのリア王の物語を始めて先入観を捨てフラットな立場で見られたのだ。
 そうしてみると、娘達の主張もそれなりに筋が通っているし、リア王の身勝手さも見えてくるし。何だろう。登場人物との距離感が均等になった。何より、私には、リア王こそが道化よりも、道化に見えてしまったのだ。
 老いてなおも人間の本質をつかんでいない。自分中心にものごとを見ることしかできない。そして、敢えてヘンテコな意地を貫く為に墜ちていってしまう。そんなことよりも、もっと大切なものはあるはずだったし、だいたい廻りの人まで巻込んでしまった。それなのに、自分のことばかりを嘆く。娘のことを嘆いている様で自分は何て不幸なんだという視点でしか生きられない、悲劇を見いだした。
 ホームドラマ的な視点から、リア王の悲劇が初めて見えたのだ。悲劇は廻りの人たちによってもたらされたのではなく、リア王自身によって引き起こされかき回され収束して行ったのだ。そして、最後までそれに気がつかない、悲劇。
 舞台は削ぎ落とされているからこそひとつひとつが浮き彫りにされる。
会場に入ると黒である。わざわざ光が差し込んでいるがごとくの、揺らぎの映像。最後まで使われない椅子が向こう側においてあったりする。そこに、観客がいるような空気が出てくる。黒い島のような舞台があり、そこにも椅子がある。玉座のようであるが、向こう側の椅子と同じなので観客のようでもある。物語をぐるりと囲んで見ているような錯覚がある。
 物語が始まると、向こう側には椅子が次々と落ちてくる。死がつきまとう芝居なので三途の川の石のようでもあり、バリケードのようでもある。照明は決して押し付けるような強さを持たずに極めて慎重に色合いを変えて行く。これらの美術、照明、映像が見事なのである。
 渡辺美佐子の演技は、いや渡辺は復活したと言いたいくらいに強烈である。台詞はフラットで、そこに意味合いのある感情を上塗りしたりしない。そのまま、台詞を届けることしか彼女はしない。彼女の代表作の化粧を20代のころ。もう30年以上前に見て、芝居ってすごいなあと思った。それ以来、渡辺の舞台はいろいろと見たけれど、化粧を上回るもの、化粧に肉迫できるものはひとつもなかった。今回のものはスゴい。渡辺は俳優人生の後半、83才ににして、やっと次の代表作に出会ったのだ。
 今回はキャスティングも見事だった。女性の渡辺にリアの役。おどけることとは無縁の普通の常識人のような田中壮太郎に道化。男の植本潤(この人は、花組芝居を代表する女形である。普通の男が女を演じる人である。女の役柄なのにスキンヘッドというのもいい)。つまり、老王とも、娘達とも、道化とも、元々は無縁の名うての俳優たちに、演じさせたのである。面白い。だからこそ、私は等距離で、ヘンテコな役に対するイメージを削ぎ落として、見ることができたのである。
 暴風雨はリアの心の中でのそれの方が、荒野の嵐よりも圧倒的だったはずだ。だから、そんなものはこの舞台にはない。
 もう一度申し上げるが、芝居は万華鏡というかプリズムのようなもので、受け手によって、その感想はそれぞれでいいと思う。劇評を仕事にする人たちは勝手に評価して、いいとか悪いとかすればいいが、観客はそんなものは要らない。私の隣のオバさんは、5月にしては暑い中劇場に来たからか。心地よい空調の中で眠っていた。ほとんど見ていないが、渡辺さんは元気でスゴいわねえと言っていた。それも、また事実であり、そういう観劇があってもいいと思うのだ。
 
 切り刻まれたシェイクスピアは、何と言ってるだろうか、ニヤッとして、なるほど、これもありだなあ。ワシの書いた作品はスゴいなあと自画自賛しているのではないか。この能やら歌舞伎やらさまざまな日本演劇のエッセンスがあるからこそできる、シェイクスピア劇であるけれども現代日本演劇の、日本的表現を駆使した作品。
 あのね、野田さんも蜷川さんも三谷幸喜もいいけれど、こういう作品こそ税金を使って、ロンドンとパリとベルリンとモスクワの人に見せてもらいたいと思う。それが国策ってもんでしょ。
 欧州の教養のある人たちは思うはずだ。日本の文化は奥深い。今度歌舞伎や能をみてみようか、盆栽も生け花も日本庭園も知りたい、着物を生活に根ざした美術作品なのではないか、日本食は哲学である、となるはずなのだ。
 佐藤信の「リア」はヨーロッパの文化の中心部と融合した、極めて日本的な作品なのだから。文化庁さん、国際交流基金さん、お金を出すべきなのはこれです。

2015年5月31日 座高円寺1


補足;舞台は1時間20分弱で3部構成になっている。2幕だけ渡辺は舞台に出ていない。渡辺の小休憩の意味合いもあるのだろうと思う。そこでは、2人の男優が劇中劇なのか、芝居はしているが、テンションをリセットするための心の休憩なのか、リアと関係あるけれども、役柄から抜け出して、ほとんど俳優というよりも素の人間に近いところで演じる時間がある。自由で軽くていいと思う人もいるかと思うけれど、私はあまり好きでない。ちょっとやり過ぎな感じがする。あれなら、10分間の休憩の方がいいのではないかと思うくらい。まあ、好き嫌いなので。

江守徹のリア王は、文学座最高の俳優陣の名演で演劇史上に残る必見の名舞台

 文学座アトリエにて、文学座公演「リア王」を観劇。鵜山仁演出。小田島雄志翻訳版。やはり注目は大病でしばらく舞台から遠のいていた名優・江守徹がリア王を演じるということだ。江守のリア王を見るのは初めてだし、だいたい日本でプロの劇団がリア王を演じることはあまりない。それほど深く難しい作品なのだ。私は、蜷川幸雄がロイヤルシェイクスピアカンパニーを埼玉に招き、道化に真田広之をキャスティングして上演した「リア王」が好きだ。リア王はマクベスとは違う。絶望の中でもがき狂い死んでいく男の話なのだ。ナイジェルホーソンというサーを持つ名優が死の直前にリアルに演じた。1999年の上演だ。  
 江守徹は、きっと一時よりは相当回復し、良くはなったのだとは思うけれど、かつて彼がもっていた俳優としていろんなものをもぎ取られていた。滑舌、リアクションなどそれは哀しいほどだった。耳にはイヤホンが埋め込まれている。抜けた台詞のプロンプのためなんだと思われる。
 しかし、そうではあったけれども、江守徹の今をここまでさらけ出し、舞台に当たった事が却って、リア王の哀しみや絶望、怒りなどを見事に表現する肉体になっていたのだ。舞台の終幕で殺された3女を抱きながら嘆き長台詞など見事のほかない。むしろ、江守の持っていた演劇人としての多くの技術のほとんどが削ぎ取られ、演じる本質だけが残っているのだ。それだからこそ、この老王の悲劇を演じるのにふさわしい肉体になっている。皮肉なことであるが、涙なしではみられない超名演である。アトリエの限られた空間でこれがみられる贅沢さ!これは、日本演劇上演史に残る名舞台が誕生したといいたい。
 こういうのこそ、NHKは舞台中継して、ドキュメンタリーも作成して演劇を盛り上げて欲しいなあと思うくらい。
 そして、廻りの演技陣の素晴らしいこと。同じく絶望のどん底に突き落とされるグロスター候は坂口芳貞。相変わらずの若い感性と若い俳優がやってしまう、シェイクスピア劇ってこう語るんでしょ、こう演じるんでしょという何もない空虚な型を追う演劇から、完全に自由。くだらないものが全て削ぎ落とされた演技は見事というほかはない。それは、別役ものなどで名演を披露し演劇人として絶頂期にある(何で映像や他の舞台がもっとオファーしないのか分からない)金内喜久夫の道化もそうだった。真田広之がアクロバティックな動きで魅せたのと対象的に、道化の内側に迫り、この名作になぜシェイクスピアが道化を登場させたのか、この演技をみてなるほど!と膝を叩いた。
 そして、ケント公の外山雄二の品格のあること。3時間の冒頭から最後まで通して悲劇の目撃者として見事な役回りを演じるのだ。それは、比較的小さな役であったが、高瀬哲朗にも言える。この俳優が上手下手にたち、舞台中央の俳優の作り出す物語を見ている、聞いていると、観客は、まるで映画のように、役者の演技に集中し、まるでクローズアップの演技を見ているような効果をもたらす。比較的若手では浅野雅博が良かった。外部公演でも、ジムキャリーのように芝居ごとに見事に変身してしまう浅野であるが、今回も同様。エドガーを演じた。演じ分けすぎた感じもあったが…。エドマンドを演じた若い俳優は、この浅野エドガーによって大いに助けられていた。コーンウォール公を演じた俳優の名前は分からないが良かった。その他の俳優陣も、古典劇の台詞を一度根本から洗いなおして、魂から発せられた言霊として、人間の性質の当然の行為として再現、いやいまそこに起きている事件として、あった。素晴らしい演技であり上演だった。
 女優陣は、少し古典劇、朗々と謳い揚げるタイプの演技に走りがちな部分もあったが、これだけ文学座の名うての男優陣が存在感があると、あそこまでやらないと負けちゃうなとも思った。コーディリアの岡崎はいいキャスティング。
 せっかくの江守リアなのだから、もう少し大きな劇場でとも思ったが、なるほど、これはアトリエ公演がふさわしい。チケット代が4000円では安すぎる感じはあるが。。。
 アトリエ公演で、シェイクスピアの芝居らしく、ほぼ何もない白い空間に王宮の、戦場の、人生の、無限大の虚無感が広がっていく。前売り券は完売らしいが、演劇ファンなのであれば、何としてでもチケットを手に入れて観に行くべき、なかなか見られない代物である。必見。日本演劇上演史に残る名舞台なのだから。それも、リア王で!
 2015年1月9日@文学座アトリエ

『多様な笑いを発見するドストエフスキーの匂いのする作品』

 ナイロン100℃「社長吸血鬼」。
 いま、御岳山の噴火、台風18号、19号、広島土砂災害、政治経済のできごとも含めて、いろんな重いニュースがある。しかし、観劇して一週間以上立つのに、この芝居をみたあとから、何かが、まだまだ心の中にしみ込んでくる。感想をまとめようと思ってるのに、それが心の中にどーんと居場所をもっていて、それがまだ形も大きさも色合いも変わっていくのでまとめきれない。でももう一週間も立ったのだから何か書いてみようと思う。
 ドストエフスキーが、現代日本に生きていて、戯曲を書いたのなら、その色合いはこんな感じだったのではないか。そんな感じである。チェホフではない。ゴーリキーでもない、ましてや、シェイクスピアさんでもない。ドス君である。

 ケラさん、社長シリーズのことに触れていたはずだ。そう、森繁や、三木のり平や、加藤大介が出ていたあのプログラムピクチャーのこと。ケラさんは、作品を誰よりも知っていて、いや実際、それに言及してるのを目撃(Twitterとかだったので、読んだというより目撃)したこともあったはずだ。
 そういう作品をどこかベースに作るのだろうと想像していたら、夏前に「社長吸血鬼」ってタイトルになっていて、結構おどろおどろしいチラシだったり、ご覧のようなコウモリな感じだったので、どんな話だろと思って会場にいったら、ペラ紙の参考資料の中に、豊田商事事件があったので、うんぐと思ってしまった。美術も重量感を感じた。
 こっそり「社長放浪記」という舞台を伊東四朗さん主演で作った三谷幸喜作のことを意識してるのかなと思った。それも至芸を見せてもらったのだけれど。三谷さんは、森光子の「放浪記」を意識してるのかなと思いつつ。。。
 この物語にも社長は直接出てこない、話の重しになる社長はどこかに消えてしまって(放浪して)出てこないし、芝居が始まりしばらくすると、社員もお客のことも吸い尽くす吸血鬼であることも分かる。え!こんなにストレートなタイトル…か、でむしろ驚いた。
 エンタティメント性は高い。それに、出ている役者さんは上手いので2時間半は短いし、その時間のスピート感も、会場の空気もどんどん入れ替わりながら進んでいく。照明を変える事も、舞台装置が変形していくのもあれだけれど、役者が空気をどんどん入れ替える。重量を変える。スゴいのである。
 で、残るのは、何かケラさんの今の世の中、社会に対するストレートな吐露である。戦争は良くない、政治家はもっとしっかりしろ、そんな当たり前の、作品として底の低いものじゃなくて、今の日本を覆い尽くす空気への想いなのである。今の世の中の、何か重苦しい、広がりのない、どんよりとした、ダークな、社会を覆う空気を舞台で再現してみたような感じがする。
 こういう出てくる人がみんな問題があるっていうか、ダークな人ばかりの芝居は大好きだ。いい意味で、逃げ場がない。
 もちろんエンタティメント性は高いから、笑いは巻き起こる。面白いのだ。だが、会場から起きる笑いはどっ!というものもあるけれど、笑いの質は同質でない。が、今回ほど、一人で大声で笑う客がいろんなところで、いろんな人がいたなんて珍しい。それもいろんな笑い声が聞こえてきたのだ。声に出さないものも含めて、自分自身も笑いながらも、怖くなる、重くなっていく。笑いながら、重くなっていくのであるが、それは、自分自身に向き合っているのである。
 そんな芝居なのである。笑いにいろいろとあって、自分の中で巻き起こる笑いも、この芝居はいろんなスイッチをオンオフしてくれる。それが、何かね。対峙させられちゃってるのが分かって、自分自身とね、自然とね。対峙させられてしまって、ね。不思議な芝居である。
 芸人のかもめんたるが出演していた。僕は知らないお笑いの人なんだけれど、ナイロン100℃の俳優と互角に演じていた。見事である。
 ドストエフスキーが現代日本に生きていて、でも、小説というよりも戯曲家だったら、こんな芝居を書くのではないか。この作品は、イギリス人、ロシア人、フランス人も、好きそうな芝居である。
 それは、現代の若い日本の戯曲家にありがちな、個人の内面ばかりみたり、単に物語を追ってみたり、社会の問題を新聞的に描いてみたりという芝居とは根本的に異なる。
 個々の内面の問題であり、社会に向き合い、開かれている作品であり、演劇ならではの作品なのである。とてもパーソナルであるのに、時代を超えていくPowerを持つ作品であった。
 ちょっと思ったんだけれど、時々、映画の「ダークナイト」を見た時の空気とリンクするなあ。
2014年10月6日@本多劇場
誰が見ても笑えて面白い作品は、紛れもない才能の結実。

「窓に映るエレジー」@CBGKシブゲキで鑑賞して来た(7月31日夜)。2時間あまりの作品はバラエティに富み面白かった。ブルー&スカイがメインで作っているのだろうが、ちょいと違う。それが大倉孝二の味なのだろうか。 ジョンソン&ジャクソンいづれにせよ、ブルー&スカイと大倉孝二という紛れもない現代演劇界の才能の科学反応は大変素晴らしく、ボッシュの絵画、ウディアレンの映画のように変幻自在に楽しめるようにできた上質のコメディであり、劇場作品であった。
 冒頭は中2レベルの下ネタから入る。ここで、会場の緊張が緩む。そして、さて芝居が進むかと思うと、ウェルメイドな音楽が演奏されたのには驚いた。さて物語は…と、ここで少々、あらすじを書いてもいいのだが、つまらない新聞の劇評と同じようになってしまうし、これから見る人には邪魔だし、見ない人にはどうでもいい話なので書かない。ただ言えることは全編笑いである。笑いでありナンセンスである。ナンセンスで物語は紡がれて行く。節約、仕事、格差、リア充。幸せを必死に求めて、確実に不幸になって行く人間を笑い飛ばすだけでなく、社会と現代そのものも笑い飛ばして行く作風に舌を巻く。誰が見ても面白く笑える。そして2時間の劇場作品として一流のそれに仕上がっていた。
 会場の笑いは大倉孝二や池谷のぶえが作り出す分かりやすく一級の笑いに反応しているのだが、村岡希美が真面目に必死に生きている女を演じていることがこの作品の軸となっており、ときどき笑いに走るかなというところで踏みとどまる池田成志の抜群のバランス感覚のある名演で芝居は締まり、人間のむだな懸命さが愛おしくなってしまうことに観客は気づいていないかもしれない。笑いながらも哀しい。そんな作品なのである。ブルー&スカイ自身も役者として演じるが、その抑えた演技は素晴らしい。やり過ぎや無駄な主張は常に演者のための高揚感であり作品や観客にとって喜ばしい自体ではないからだ。
 物ごとの表現は常に削ぎ落とすことによって純化していく。観客との繋がりは、削ぎ落とされた部分に観客の心が共鳴することによって埋まって行くからだ。
 ブルー&スカイという作家は同世代でも特別な才能である。他がドリフターズやひょうきん族などのテレビでのコントに大きな影響を受けて、作品をバラエティショー化して演劇だと言い張っている時代に、前述のような作品を生み出して来た。ナンセンス、ばかばかしさ、その先には常に人間そのものを笑い飛ばしてきたのだ。
 多くの人の理解を得たのかどうかは分からないが、まさに一級品なのだ。
 演劇の公演でグッズなど買わない僕が、なぜか買ってしまっていまでもちゃんと持っているものがひとつある。それは割り箸だ。演劇弁当ネコニャーがどんどん追い込まれて、中野のウエストエンドで公演を打った時に買ったもので、確か500円。五膳だから、1膳100円。こんなに高い割り箸は買ったことがない。
 だいたい演劇弁当という名前を劇団の名前の前につけたのも、みんな食うのが大変だから弁当屋やってバイトしながら演劇するためにつけたとフライヤーで言っていたけれど、芝居だけでなく自分も劇団も笑いの対象にしてた。面白い。劇団としては無くなったとしても、この割り箸は、将来きっと価値がでると思って買い求めたのだ。
 というように、ブルー&スカイは若い時から不思議な世界観、空気感を作れる作家であり演出家だなと思った。きっと世の中のメインストリームになるだろうなあと思った。時代が追いつく、もしくは、もっと年を取れば老成していろんなことを知ってちょうど良い売れる作品を作り出すようになるかもしれぬ。それはもちろんある程度自分というものを残しながらなのだけれども、作り出すだろうなと思っていた。もう10年くらい前の話だ。
 どうなんだろう。そんな作家になるのかもしれないし、ならないのかもしれない。何か無理してでも売れてやろうという気迫ばかりが演劇の作家からは感じることが多いが、ブルー&スカイはもっと独自の道を歩むのかもしれない。例えば、イッセー尾形のような、いやイッセー尾形ならいいのだが、マルセ太郎だと食うのに困る。 まだまだ見てみたい才能なのである。大倉孝二という俳優についてはもはや私なんぞが語る必要がないだろう。一度、松竹の映画作品、それもプログラムピクチャーで見てみたい俳優だ、とだけ言っておきたい。
 作品は2時間をふと思い出しながら、必死に演じて笑われた登場人物が客席をずーっと見続ける形で終わる。それは、観客自身の姿であることを分かってねという感じなのかな。いや、そこまでは言ってないのかな。でも、それがエレジーであることは間違いない。
 2014年7月31日@CBGKシブゲキ
 100年近く前の時代を背景にかかれた作品を現代に上演するということはどういうことか。それを考えさせてくれたのがケラリーノサンドロヴィッチ潤色、演出のナイロン100℃『パン屋文六の思案~続・岸田國士一幕劇コレクション~』である。大正の終わりから昭和一桁に書かれた岸田國士の作品を上演した。7年ほどまえにも岸田作品の一幕ものを上演している。今回もさまざまな作品をひとつの作品として絡めてコラージュしている。それでもきちんと区切りもつけるために、作品の終わりごとに、原作名と出演者と演者を紹介する。
 3時間10分の作品を通して古さは感じられない。原作を読んだわけではないのだが、作品を再演するということはこういうことなのではないか。
 日本での古典での上演は、特に新劇系の、もしくは宗教的に作品と作者を信奉するグループの作品に見られるように、まるで博物館、史料館を訪れたような気分になってしまう上演が多い。
 ケラさんの作品にはそれがない。今までこの世に産み出された素晴らしい作品を心から愛するケラさんではあるが、それを神棚にあげて奉るような失礼な事はしない。現代の視点できちんと見つめ、作品の本質をつかんで上演する。だから見ていて古さは何にもないのだ。
 ケラさんは自分の思いを伝えたくて伝えたくてたまらない。劇場に入ると、多くのやじろべえというかモービルのオブジェが下がっている。そして、舞台上にはやじろべえのように、何とかバランスを保っている人間やじろべえが創出される。やじろべえは手で故意に触れるとグラグラと揺らぐ。でも、まあ元の鞘に納まって行く。その揺れ具合を舞台で創出している。舞台のど真ん中の頭上に大きくあるのはシンプルなやじろべえ、その先には XX XY と書かれている。岸田の時代にはまだ解明されていない染色体である。男と女。うーーーん、分かりやすい。流れる音楽は、この時代の少しあとの昭和を彩ったエノケン。舞台にある美術はまるでカンディンスキーである。色使いも線も。ワシリーカンディンスキーはロシア出身の画家で、ピカソやミロやいろんな画家に影響を与えた19世紀の人。その作品もよく分からないものがひとつのキャンパスに創出されるが、不思議とバランスが取れているものだ。
 ナイロン100℃の上演の魅力のひとつはその俳優陣であることを否定する人はいないだろう。僕はテレビや映画で大人計画出身の俳優達が山ほど出ているのに対し、こんなに魅力的なナイロン系の俳優陣がイマイチなのが残念でたまらない。ケラさんは自分の劇団の俳優を、いや俳優そのものを愛している。ナイロン100℃の若手にもきちんと爪痕を残せるような役回りを作った台本には俳優への深い愛情を感じるはずだ。べらぼうにうまい松永玲子や味わいのあるみのすけ。出演者が多いのでケラさんが理解している事をどれだけ分かってやってるのかな?と思う役者もいるし、でかい役をもらっている人も、ああ、ここは得意なんだ。ここは綱渡りなんだ。あれ、あれ?みたいなところもあるし。ちょっと悪目立ちだなあと思う瞬間もあったりするのだが、やじろべえのように、何か上手ーーく落ち着くところに落ち着くのだ。
 ひとつだけ、俳優さんのこと。緒川たまきさんの立ち姿が美しい。あれ、自然に見えているが大変なのである。まるで歌舞伎俳優のように舞台に立ち向かうのであった。
 円形劇場、どこから見ても面白い。不思議な演劇やじろべえをご覧あれ。
2014年4月10日
竹本義太夫三〇〇回忌記念
通し狂言 伊賀越道中双六
       (いがごえどうちゅうすごろく)

<第二部>4時30分開演
    藤川新関の段 
      引抜き 寿柱立万歳
    竹藪の段
    岡崎の段
    伏見北国屋の段
    伊賀上野敵討の段


 (主な出演者)  竹本 住大夫 鶴澤 寛治  鶴澤 清治 吉田 簑助  吉田 文雀 ほか

2013年9月7日@国立劇場

「名作中の名作を名うてのキャストで」
 有吉佐和子の言わずと知れた名作を斉藤雅文の手堅い演出で上演。角を付き合わす3人の老女は言わずと知れた仲良し3人組なので、息もぴったり。そして、佐藤B作が本当に慈しむように役柄を楽しんで演じ、舞台に笑いと深みを与えた。年末には笹野高史さんで再演されるらしいが、笑いながら人間の本質に迫る台本はいつまでたっても新しい。2013年8月30日@三越劇場

「レントを意識しているのだろうけれど」
 ブッシュ政権以降のアメリカの社会状況と、そこに生きる若者の圧迫感を、グリーンデイは音楽にし、この作品はそれを舞台化した。音楽が中心で、ダンスや演劇的な要素も組み込んで行くけれど、まるでオラトリオを見ているような感じで、演劇的な、特にミュージカルとしての高揚感はない。見ていると、レントを意識しているのかもしれないが、レントには遠く及ばない。
2013年8月10日@東京国債フォーラム
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佐藤治彦 Haruhiko SATO
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男性
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演劇ユニット経済とH 主宰
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演劇、音楽、ダンス、バレエ、オペラ、ミュージカル、パフォーマンス、美術。全てのパフォーミングアーツとアートを心から愛する佐藤治彦のぎりぎりコメントをお届けします。Haruhiko SATO 日本ペンクラブ会員
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