佐藤治彦のパフォーミングアーツ批評 オペラ 忍者ブログ
自ら演劇の台本を書き、さまざまな種類のパフォーミングアーツを自腹で行き続ける佐藤治彦が気になった作品について取り上げるコメンタリーノート、エッセイ。テレビ番組や映画も取り上げます。タイトルに批評とありますが、本人は演劇や音楽の評論家ではありません。個人の感想や思ったこと、エッセイと思って読んで頂ければ幸いです。
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ウィーンフォルクスオーパー来日公演2012 ウィンザーの陽気な女房たち


ファルスタッフ:フランツ・ハヴラタ
フルート氏:マティアス・ハウスマン
ライヒ氏:シュテファン・チェルニー
フェントン:ユンホー・ヨウ
シュぺ―ルリヒ:カール=ミヒャエル・エブナー
カーユス:ミヒャエル・ハヴリチェク
フルート夫人:エリーザベト・フレヒル
ライヒ夫人:スーリエ・ジラルディ
アンナ:ベアーテ・リッター

ウィーン・フォルクスオーパー管弦楽団、ウィーン・フォルクスオーパー合唱団
ウィーン国立バレエ団



「S席39000円のオペラとして」
 美術も照明も小道具も面白かった。フォルクスオーパーなのだから、あまりギチギチしてみてはいけない。気楽に観ようと思っているのだが、3万円以上も支払うクオリティとして、このオケにこの合唱団なのかと思ってしまう。新国立劇場に比べると相当低いレベルである。特に大勢出てくるシーンでの動きなどは、きちんと演出がされていない。おおよその指示は出ているだろうし、その範疇で動いているのだろうけれども、テンションは低く、揃ってもいない。一部のソリストはいい声もあるが、ヴェルディの「ファルスタッフ」が傑作なのに対し、こちらは作品も演奏も2流であった。空席は景気の悪さばかりではない。日本の観客はすでにいいものを山ほど観てしまっているから選ばないのは良くわかる。2012年5月19日@東京文化会館
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Conductor: Fabio Luisi
Manon: Anna Netrebko
des Grieux: Piotr Beczala
Lescaut: Paulo Szot
Comte des Grieux: David Pittsinger
Production: Laurent Pelly
「マノンというよりもネトレプコ」
 このマノンのプロダクションは日本で2010年に見た。そう、ロイヤルオペラの来日公演で見たものと同じなのだ。プログラムをよく見てみると、メトロポリタンオペラ、ロイヤルオペラ、ミラノスカラ座、フランストゥールーズオペラと4つのオペラハウスの共同制作となっている。だから、衣装も演出も照明も同じだ。美術もセットも日本で見たものと基本は同じ。もう少し舞台を飾っているというだけだ。
 そんなマノンのヒロインは今回もネトレプコ。ロイヤルオペラで見たときよりも歌は安定し、演技も素晴らしい。女王の風格がますます備わって現在世界最高のディーバである。この作品は上記のように欧米のトップオペラハウスで上演されるわけで同じプロダクションでネトレプコは世界を制覇したわけだ。
 少し太ったけれども彼女が出てくると巨大なメトロポリタンオペラの空間が華で満たされるのを味わった。



2012年4月14日@ニューヨーク メトロポリタンオペラ劇場

Conductor: Fabio Luisi
Violetta Valéry: Natalie Dessay → 病気のため Hei-kyung Hong に交代
Alfredo Germont: Matthew Polenzani
Giorgio Germont: Dmitri Hvorostovsky
Production: Willy Decker


「オペラの筋以上に病気のMET椿姫は過去の栄光を失った」
 2年前2010年4月にmetで見た「椿姫」がゲオルギューの歌と演技と姿の三位一体の完璧さがあって俺の心は打ち抜かれ、ああやっと椿姫に出会った~!と感激したものだ(このブログ参照)。古いといわれるかもしれないが、写実的で豪華な舞台美術もオペラをみる楽しみを感じさせてくれた。今回は指揮はファビオルイジだし、ナタリーデッセイのヴィオレッタも聞いてみたいなと思い出かけた。
 しかし、すべては変わっていたのだ。まずはプロダクションがウォルフガンググスマンのドイツ表現主義的な舞台美術に変わっていた。真っ白の半円の舞台には長いベンチがまあるく置かれていて、頭上が大きく開いている。左手に扉、上手に大きな時計があるだけ。
 開場すると、男がその大きな時計の横に座っていて過去を回想している。


 こんな感じで演出もこのオペラを何回も見ている人にはなるほどと思わせるところもある。たとえば、ヴィオレッタとアルフレードはであってすぐに激しい愛撫をはじめ、アルフレードはヴィオレッタのまたぐらに手を突っ込みながら愛の歌を歌いまくる。そうだった。ヴィオレッタは娼婦だったのだと思い出させる分かりやすい演出がちりばめられる。また、アルフレードは一貫して世間知らずのばかな若者として描かれ、子供ような行動を山ほどとる。感情はむき出しで、ジェルモンピンタされたり、どつかれたりする。終幕の死期の場面で、窓の外に聞こえるカーニバルの歓声は、この中に入ってきて、ヴィオレッタは男たちに囲まれている過去の自分と同じような(同じような赤い衣装)を着ている女と目を合わせるといった具合。
 何しろヴィオレッタの衣装がアルマーニの衣装のような絹のような真っ赤な短いドレスだけで、下着に見えなくもない。なるほど、なるほど思いながら、いまさらそんなことする必要あるのか?とも思ってくる。アルフレードやヴィオレッタの愛の物語でいいじゃないか?と思ってしまうのだ。特にあの素晴らしい前のプロダクションセットを放棄して、こんなドイツの予算のない劇場がやりそうなプロダクションに変える必要が分からない。デッセーが降板した理由が実はこのプロダクションにあるといわれたら、そうだろうそりゃと言いたくなるくらいだ。
 で、肝心の演奏もそこそこだったのだ。この日の「椿姫」はシーズン初日だったのだけれども、1幕では乾杯の歌のところでもオケの縦が全く合わない。それが何分も続く。こんなばらばらのMETのオケを聞くのはもう25年以上もこの劇場に通っているが初めてのひどさ。ホンの声も細すぎて、前回はゲオルギューの素晴らしさの影に損をした、ホロストスキーのジェルモンが一番喝采を得ていた。ホンが良くなったのは後半、それも死期が近づいてからのシーンで、死にそうな役を演じているのだから、ちょうどいいころ加減である。
 僕は冒頭から期待が高かっただけに、がっかりで相当寝た。高額のチケットを購入しおしゃれもして出かけたのにがっかりだ。メトの「椿姫」は新しいプロダクションができるまでもう行かないと思う。
 2年前に見た過去の椿姫の素晴らしさを思い出すたびに、METは過去の栄光の椿姫を捨て去ってしまったのか、ヴィオレッタ以上に病気なのか?METと思いたくなる。

2012年4月6日@ニューヨーク メトロポリタンオペラ劇場
エイドリアンノーブル演出
ノセダ指揮 トーマスハンプトン出演


「なぜ眠ってしまうのだろう」
ノセダ指揮のメトロポリタンオペラ管弦楽団は大変いい演奏をして、ハンプトンの歌唱もよく、美術も演出も悪くないのに、爆睡しつつ見てしまった。なぜだろう。肉体が疲れていたのか?それだけではない、このヴェルディのオペラ、他の作品と比べると完成度があまり高くないと思ってしまう。前も寝てしまった。次はきちんと見たい。
2012年4月5日@メトロポリタンオペラハウス
「ラインの黄金」
CAST Conductor: Fabio Luisi
Freia: Wendy Bryn Harmer
Fricka: Stephanie Blythe
Erda: Patricia Bardon
Loge: Stefan Margita
Mime: Gerhard Siegel
Wotan: Bryn Terfel
Alberich: Eric Owens
Fasolt: Franz-Josef Selig
Fafner: Hans-Peter König

「ワルキューレ」
Conductor: Fabio Luisi
Brünnhilde: Deborah Voigt
Sieglinde: Eva-Maria Westbroek
Fricka: Stephanie Blythe
Siegmund: Stuart Skelton
Wotan: Bryn Terfel
Hunding: Hans-Peter König


Production: Robert Lepage
Associate Director: Neilson Vignola
Set Designer: Carl Fillion
Costume Designer: François St-Aubin
Lighting Designer: Etienne Boucher
Video Image Artist: Boris Firquet

「観客が求めているのはルパージュではなくワーグナーではないのか?」
 ロバートルパージュは光と影の魔術師といったフレーズで語られるいま注目の演出家である。シンプルな舞台で、今回は三角形の縦横無尽に稼働するオブジェに照明やビデオ撮影されたものを投影することによって瞬時にして場所を移していく。アイデアは面白い。しかし、ワーグナーのこの巨大なオペラには、アイデアがちょっと煩かった。特にこのようなモダンな演出をするのなら、美術やセットだけでなく、衣装なども含めて徹底して欲しかった。衣装も演技も神話の世界そのままで、美術だけがモダンなのである。
 時には吊り下げられながら、時には身体の平衡を気にしながら、坂道を移動しつつ唄い演技をしなくてはいけない歌手たちが少々可哀想だった。歌と演技以外に歌手にかかる肉体への負荷が大きすぎる。
 もちろん現代最高のワーグナー歌手たちの歌唱は素晴らしかった。
 気になったのはファビオルイジの指揮するオーケストラだ。もちろんニューヨークのインターナショナルなオケがやっているわけだけれども、ちょっと音色が明るすぎた。ワーグナーだから重く暗い音が聞こえて来ないと認めないのか?と言われると全くそうではないのだが、きっと私の思った事は、歌手たちの演技だけが神話の世界で、美術もオケも現代そのものだったことによる引き裂かれ感に戸惑ったのだと思う。それにしても、古いと言われるだろうが、メトロポリタンオペラが1980年代の終わりから20年あまり使ってきたオットーシェンクの演出が懐かしい。あのギュンタージームセンの美術がもう一度見たい。歌手たちの演技は、そこに留まっていて、そこで唄いたかったとどこかで思っているように思えた。

 僕のそういう思いもあるからかもしれないが、どうしてもルパージュの演出は自己主張が強すぎるというか、自分のしたいことをするために他のものを相当犠牲にしすぎているように思えてならない。そして、ワーグナーのオペラにとってその感性が邪魔に思える。オペラの演出は、あくまでも音楽そのものへの奉仕でなければならない。これが僕の考え方だ。
 ルパージュは、観客が先ず第一義にワーグナーを求めてきていることを忘れてはいないか?ルパージュは自分自身を魅せる事を第一に作っているのであれば、それは傲慢というものである。

「ラインの黄金」2012年4月4日@ニューヨーク メトロポリタンオペラ劇場
「ワルキューレ」2012年4月13日@ニューヨーク メトロポリタンオペラ劇場
新国立劇場オペラ ヴェルディ作曲 オテロ


【指 揮】ジャン・レイサム=ケーニック
【演 出】マリオ・マルトーネ 【美 術】マルゲリータ・パッリ
【オテロ】ヴァルテル・フラッカーロ 【デズデーモナ】マリーナ・ポプラフスカヤ(降板)→マリア・ルイジア・ボルシ
【イアーゴ】ミカエル・ババジャニアン 【ロドヴィーコ】松位 浩
【カッシオ】小原啓楼 【エミーリア】清水華澄
【合 唱】新国立劇場合唱団 【管弦楽】東京フィルハーモニー交響楽団

「理想のオテロ4幕がここにあった」
 オテロはいろいろと見てきた。1990年ごろにロンドンでカルロスクライバー、ドミンゴ、キリテカナワというキャストで見たし、2003年のミラノスカラ座の来日公演のフォービスのオテロには圧倒され2回見た。これが僕の「オテロ」の最上経験だった。他にも例えば、メトロポリタンオペラや、昨年の6月にはパリでパリオペラ座の公演など、山ほど見てきたのだが、観るたびにこのオペラは難しいのだなあと思うのだ。歌唱も難関だがただ唄えばいいものではなく、求められる役作りと演技がとても難しいのだ。
 新国立劇場のプロダクションは50トンの水を使ったベネチアを再現したものとして美しいのだが、何かベニスの裏の庶民的なところで起きる感じだ。サンマルコ広場で起こる物語にした方がいいのではと思ってしまう。
 せっかく水を張っているのにその効果もあまり出ていない。美しいけれど効果的でないというのが感想。しかし、このプロダクションを前に見たときは、この美術の美しさの方が印象に残っていて歌唱や演奏についてはソコソコみたいな印象だったんではないか?
 今回の主役は音楽だ。素晴らしかった。特に今日の東京フィルの演奏は驚愕ものだった。音がなり始めたとたんに「何じゃこりゃ〜」と。それは、まさにムーティ/ミラノスカラ座の来日公演の時に聞いたときと相通じるシェイクスピアの悲劇が始まる激しさがあった。オケは縦もあってるし、セクションのピッチも素晴らしく、何よりもうねるうねる。ヴェルディサウンドがまさしくあったのだ。今日のオペラの公演は東フィルが引っ張ったといってもいい。
 また、演出の話になるが、オテロの登場を客席を歩かして舞台に上げたのは如何なものか?オテロの英雄感とか神聖は消え去り庶民性が増してしまう。そして、1幕ではフラッカーロの歌唱もそこそこであった。マリオデルモナコや全盛期のパバロッティのようなトランペットの音と比較したくなるような声はそこにはなかったからだ。しかし、イヤーゴのババジャニアンは冷徹な役作りで演技も歌も素晴らしい。天国などマヤかしだと言い切るところで観客の心をつかんだはずだ。デズデモーナのボルシは代役で登場であるがオテロがイマイチだったのに対し安定した歌唱を聴かせてくれた。
 1幕はオケは最高だったけれども歌唱は及第点という感じだったのが、終幕が近づくにつれてどんどん良くなっていく。2幕でのオテロとイヤーゴの掛け合いあたりからオテロにも火がつく、3幕のオテロとデズデモーナのやり取り、4幕の柳の歌のピアニシモ。オテロの死に至るまでの恐怖と狂気の葛藤にいたっては、世界最高峰のヴェルディオペラが初台に登場していたのだ。
 歌手では他には、エミーリアの清水香澄が素晴らしい。外国人歌手に負けない迫力と演技は特筆ものだ。(僕はブログで「チェネレントラ」でも素晴らしい歌唱を聴かせたと書いてる。もう名前覚えた。注目歌手だ!
 新国立劇場の課題としては、これは世界のオペラハウスに(それが一流であっても)共通するのだが、合唱や脇役の演技が酷すぎる事だ。分かりやすい例を挙げると、オテロが登場して軍人や市民が拳をあげて歓迎する。しかし、拳をあげ続けているだけ。形はあっても心がないのだ。前に声楽を勉強したのでもう一言だけ言わせてもらうと、腕を上にあげて英雄を迎える、手を振るなどをやっていると、あの場面でのフォルテの歌唱をするのに肉体がヘンテコになって発声しにくいはず。だから形だけになってしまうのだ。それなら、拳を上げ続ける愚かな悪目立ちはしないほうがいいのだが、やってしまうものなのだ。
 場面転換で一気に50人以上が舞台に入ってきたり出て行くときも、全員が位置につくまで芝居してないし、で、今度は退場の時には、動き始めたら芝居をやめてしまう。そういう段取りなので動いているだけ!これは、全くダメ。演技をするときには、きちんと動機がなければダメ。もう少しそこいら辺を丁寧にやらないと。
音楽は続いているわけで、目障りといったらない。
 まあ、夢物語だけれども、僕がオペラの演出に携わる事ができたら、そこいら辺を徹底的にやりたい。一度分かってしまえば、いろんなオペラで応用できる。
 要は小劇場の俳優でもちょっとまともな者ならできる演技の基本中の基本を合唱団は分かっていないのだ。
  一方で、今日は主役3人と清水は歌と演技が一体化し見事なのだが、それ以外は段取りの動きに歌がついているという感じになってしまう。ここをもっと丁寧に作り上げると劇的効果は圧倒的になるだろう。
 もう一度申し上げるが、この「オテロ」の上演は世界最高峰のものである。特に東フィルのオケが特筆もの。歌手たちも初日を終え、千秋楽に向かってもっと良くなるだろう。観客はヴェルディとシェイクスピアの悲劇に熱狂するだろう。この「オテロ」は絶対いい買い物だ。2012年4月1日@新国立劇場オペラパレス
ヴェルディ作曲
東京フィルハーモニー管弦楽団
指揮 :ピエトロ・リッツォ Pietro Rizzo 
演出 :ウルリッヒ・ペータース Ulrich Peters
レオノーラ/タマール・イヴェーリ Tamar Iveri マンリーコ/ヴァルテル・フラッカーロ Walter Fraccaro ルーナ伯爵/ヴィットリオ・ヴィテッリ Vittorio Vitelli
 アズチェーナ/アンドレア・ウルブリッヒ Andrea Ulbrich フェルランド/妻屋 秀和 老ジプシー/タン・ジュンボ イネス/小野 和歌子



「新国立劇場の水準は高い」
 外来オペラを聴きまくった9月から10月にかけて最後にきいたのがヴェルディ中期の3大オペラのひとつ。トロヴァトーレ。初めは初日に行こうと思ってチケットを買ったのだが「ナクソス島」でめちゃくちゃいい席が手に入り妹に譲渡。こちらの幕が空いてからの評判が良くて千秋楽に間に合った次第。こちらはレオノーラが当初のタケシュメシェ・キザールが来日したものの体調不良で帰国、ルーナ伯爵も当初のゲオルグガクニーゼが原発問題で出演降板ということであったのだが…。4人の歌手の水準が十分に高くてこのオペラの魅力は十分に発揮された公演であった。僕は最初に見たのは1987年藤原歌劇団のそれで、バブル時でカネボウが相当金を出したらしく出演者も豪華であった。アズチェーナ : フィオレンツァ・コッソット  レオノーラ : 林 康子 マンリーコ : ジョルジョ・ランベルティ  ルーナ : マウロ・アウグスティーニ フェランド : イヴォ・ヴィンコ アルベルト・ヴェントゥーラ指揮 東京フィルハーモニー交響楽団。アズチェーナがコソットである。もうコソットが全部持って行った感のある公演だったのだ。そのあとで印象に残っているのがやはり1990年前後にニューヨークで見た公演。パバロッティ、コソット、そして、ジョンサザーランドだった。
 ということで、この水準が僕にとってはこのオペラをみるときの基準になってしまう。それが決して悪くなかったのだが、アンサンブルの水準が非常に高かったからだ。先ずは東フィルのオケが素晴らしい。特に2幕の2場くらいからは絶好調で、日本のオケなのに、まるでカラヤンが求めるような音を出すなあと思った。演出は黒のルーナと赤のマンリーコと色を分けたのが分かりやすく、割とシンプルなドイツ的な舞台装置(大階段が真ん中にあって…)も分かりやすかった。終幕など鉄格子の前で唄われると、何でこんなに国賊と思ってる奴とアクセス自由なんだよ!といつも思っていたが、閉じ込められた牢獄の前で唄われるとそうだよなあとなるわけだ。
 それから照明が美しかった。2幕の青いシルエットとなる照明など、戦うことのバカらしさ愚かさを辞める事のできない人間の哀しさが伝わって来た。ところが、1幕は上手側の箱のような囲いが4面紗幕で囲まれていてそこで、レオノーラやイネスは2重唱を披露する。これが、どうも唄に悪影響。紗幕がなくなってからのレオノーラの声はきちんと響き良かったのだが、ここだけは何かイマイチインパクトに欠けるし、イネスなどは全く聞こえて来ないのだ。歌手泣かせな演出だったと思う。
 ザランカーロを初めとするメインの歌手、コーラスなども十分に唄ってくれて3時間のヴェルディのドロドロの愛憎劇を楽しむ事が出来た。過去の超名演には及ばないが、普段着で行ける気軽さのある新国立劇場でこれだけのレベルの演奏を普通に聴けるようになったのは幸せなことだと改めて思った。B席3階サイド。
 2011年10月17日 新国立劇場オペラパレス


 何回目の来日なのでしょう。第2回目の来日から、20年以上、ミュンヘンにも何回かでかけ聞いていて思うのは、ドイツオペラの最高峰ということ。今回もレベルの高いパフォーマンスが期待されています。新しい芸術監督がケントナガノであること、そして、ドイツ演劇の影響を受けた現代的な演出も楽しみです。






ドニゼッティ作曲「ロベルト・デヴェリュー」全3幕
Gaetano Donizetti ROBERTO DEVEREUX  
指揮 :フリードリッヒ・ハイダー 演出:クリストフ・ロイ

エリザベッタ:エディタ・グルベローヴァ
Elisabetta Edita Gruberova
ノッティンガム公爵:デヴィッド・チェッコーニ
Herzog von Nottingham Devid Cecconi
サラ :ソニア・ガナッシ
Sara Sonia Ganassi
ロベルト・デヴェリュー:アレクセイ・ドルゴフ
Roberto Devereux Alexey Dolgov


「グルベローヴァは全盛期を過ぎたけれども」
二人の代役の男性も頑張ってはいたけれども、今宵は女性二人の歌手がさらっていった。存在感、演技力、そして、全盛期より若干落ちるが、すべての音域の歌唱が見事に構築されていたグルヴェローヴァはさすがと言わざる終えない。最初の登場で空気が変わってしまう。すごい。まあ、彼女のすごさは多くの人が語るだろう。私は、ソニアガナッシが、グルヴェローヴァに負けじと頑張っていた事を強調しておきたい。嫉妬と悪意に負けてしまう女の感情も歌に見事に入れ込んでいたと思うのだ。そして、技術も最高水準だった。
 現代企業の女社長に読み替えた演出は、まあ、それで?という感じだが、合唱の人の動かし方が、ボローニャのそれと比べると段違いでそれが気になって仕方なかった。オーケストラは悪くなかった。
2011年9月27日 東京文化会館


「ナクソス島のアリアドネ」
Richard Strauss ARIADNE AUF NAXOS  
Oper in einem Aufzug nebst einem Vorspiel

指揮:ケント・ナガノ
演出 :ロバート・カーセン

音楽教師:マーティン・ガントナー Ein Musiklehrer Martin Gantner
作曲家:アリス・クート Der Komponist Alice Coote
バッカス / テノール歌手:ロバート・ディーン・スミス Bacchus / Der Tenor Robert Dean Smith
下僕:タレク・ナズミ Ein Lakai Tareq Nazmi
ツェルビネッタ:ダニエラ・ファリー Zerbinetta Daniela Fally
アリアドネ / プリマドンナ:アドリエンヌ・ピエチョンカ ariadne / Primadonna Adrianne Pieczonka


「緻密なアンサンブル、素晴らしい演出 So What?」
1階のど真ん中ブロック5列目の通路際という最高の席で鑑賞。今回の来日は福島原発事故、東北大震災の影響もあって、多くのカンパニーのメンバーが来日を拒否したといわれる。その数は80人とも100人とも言われる。一部の人がオケのレベルや合唱が良くないといわれたりするのはいわゆる代役のエキストラがドイツのそこそこオケから駆り出されていたからだろう。しかし、この作品は室内楽にもにた小編成でおこなわれるものだから、そういった部分での不満はなかった。ケントナガノの指揮がすきかどうかと問われるとまだ分からないというのが正直なところだけれども、今宵のリヒャルトシュトラウスからも何かあの独特のこぶし?が聞こえなかった。スコアは透徹され見直されくっきりと浮き上がってくるけれどもだ。
 演出はボローニャ、バイエルンで見た6つの作品のなかで最も良かった。無理な読み替えはないし、現代的な味付けはされていたし、人間の関係性が良くわかる演出だった。開幕前、バレエのレッスン場となっている。ミュージカル「オリバー」の自信をもってなどのポピュラーの楽曲のピアノ伴奏でダンスが踊られているのだ。そこに作曲家の教師が現れ物語は始まる。舞台は現代。ほぼ素舞台に近いところに無数の鏡が「コーラスライン」のようにあり、それらが動いて場面を作る序章。舞台全体をほぼすべて黒い箱で覆い尽くし、終幕に奥が割れて光が入ってくるだけの1幕。それでもとても良く出来ていた。歌手もチェルビネタを中心に悪くはない。
 しかし、ここには、グルヴェローバやポータの様な圧倒的な声の持ち主はいない。カリスマ性のある歌手もいなかった。アンサンブルで見せる作品だった。関心したけれど、感動しない。そんな上演だった。
 オペラには理屈を超えた何かがないといけないのだ。
 2011年10月5日 東京文化会館






Richard Wagner ローエングリン LOHENGRIN  
指揮:ケント・ナガノ 演出:リチャード・ジョーンズ
ハインリッヒ王:クリスティン・ジークムントソン
Heinrich der Vogler Kristinn Sigmundsson
ローエングリン:ヨハン・ボータ
Lohengrin Johan Botha
エルザ・フォン・ブラバント:エミリー・マギー
Elsa von Brabant Emily Magee
フリードリヒ・フォン・テルラムント伯爵:エフゲニー・ニキーチン
Friedrich von Telramund Evgeny Nikitin
オルトルート:ワルトラウト・マイヤー
Ortrud Waltraud Meier


「ワーグナーを聴く喜びにあふれた名演」
ヨハンポータは確か前にもきいたことがあると思うのだけれど、強い印象が残っていない。かつて80年代を中心に、ルネコロやペーターホフマンの全盛期を山ほどきいている私にとっては、たとえ、ドミンゴがワルキューレを唄っても、過去にきいたそれらの名テノールの声が心のどこかにこだまして満足ができないものだった。しかし、この日のポータはどうだろう。全ての音域を完璧に発声し、最強音も自らのコントロール下におき見事に唄いきったのだ。この日のポータの名唱は、ガツンと私の記憶の中に残り、またヘルデンテノールの魅力を再認識させてくれ、ルネコロが抜けた虚脱感をやっと埋めてくれた。
 確かに、ルックス的にはカウフマンには適わないだろうし演技力も落ちるだろう。しかし、3800人を収容するNHKホールの最後列のお客にまでワーグナーをきく喜びを伝える事がカウフマンにできるのだろうか?いづれにせよポータで良かったと言わざる終えないのだ。そして、マギー、ジークムントン、ニキーチンも最高峰のワグナー体験をさせてくれた。演技力や存在感はあるし、見事な歌唱を聴かせる事もあるのだが、すでに20年以上のキャリアのマイヤーが見劣り、いや聞き劣りするくらいなのだ。マイヤーは全盛期のそれではないものの、1990年代から、それこそルネコロらと一緒に唄っていた人だ。今日も第一線で唄っていること自体が奇跡なのだ。
 日本のファンのために、最後に小さめの箱である新国立劇場で唄って欲しい。きっとそんな遠くない未来に引退されるだろうけれども。今宵はマイヤーの黄昏を感じた。
 ナガノの指揮は、もう十分にドイツ音楽の真髄の音を鳴らすこのオケから明瞭でくっきりとしたスコアの音を引き出していた。重々しくなく、しかし、ワーグナー的な見事な演奏だった。合唱もすばらしく。文句なし。演出が家が建ち、それを自ら燃やしという部分とあとはその間を幕前の歌唱という、まあちょっとイマイチだし変わったものだったけれど、合唱の動かし方などもすごく考えられていた。

2011年9月29日 NHKホール



2011年10月 東京文化会館 ほか
ボローニャ歌劇場は来日公演の度に魅力的な演目を提供してくれる。そして、歌手もなかなか通好み。ミラノスカラ座よりも時にイタリア的な頂点を極める最高峰のオペラハウスだ。2011年は3演目!チケットも確保済み!

ビゼー作曲「カルメン」
「カルメンのいないカルメン」
何回もみた「カルメン」だが、メトロポリタンオペラとの来日はキャンセルしたカウフマンが歌うのかがポイントだったのだがやはりキャンセル。2011年はメトロポリタンオペラ、バイエルン、ボローニャと3大オペラハウスの来日でメインを唄う予定だったカウフマンイヤーになるはずだった。それが…。原発事故で吹っ飛んだのだ。さらに、美術が面白そうで楽しみだ。


カルメンのいないカルメン結局主要4役のうち、カルメン以外はキャストチェンジ。ある人が言っていたが、ボローニャ歌劇場は欧米の一流の次に属する2流の歌劇場。しかし、フジテレビが提示するチケット価格は超一流劇場並。それでも、私たちがお金を払うのは魅力的なスター歌手を呼ぶと宣伝するからだ。歌劇場に対してよりも歌手に対してお金を払う。それが、キャストチェンジとは…。ネット上では、原発事故の後でも来てくれているんだから感謝しろという意見が多いのですが、ボランティアで彼らは来ているのでしょうか?違います。主催者が相応のギャラを払ってビジネスとして来日しているのです。もはや日本のオペラシーンにおいては文化交流の側面が多いわけでもありません。ビジネスです。ですから5万円以上のチケット代を払って観に行っている以上、それ相応のことを求めるのは当たり前です。今回は、主催者は歌劇場よりも、各オペラの主演テノールをメインにして売ってきました。それが全員キャンセルです(リチートラの悲劇もありますが)。当日は招待券が山のようにでていることも知ってましたし、ネット上をちょっと検索するだけで、招待で行って来たという書き込みが多く、そのような人にとっては、来てくれただけでありがたいでしょう。僕も招待で見たのなら、少なくともありがたいと思います。でも僕は正規の価格を払ってますので言わせて頂きたい。このオペラ公演には憤慨しました。これはカルメンではありません。

マルセロアルバレス(ドンホセ)ヴァレンティーナコッツラディティ(ミカエラ)カイルケテルセン(エスカミーリョ)スルグラーゼ(カルメン)という布陣となった。スルグラーゼは、強音を出せる音域がとても狭い。艶やかな声は出せるのだが、強音になるととたんに弱くなる。自分の出せる能力も分かっているから、フレーズの一部だけが強音だったり、何かね穴ぼこだらけの歌手です。作り上げるカルメン像は面白いので女優としては合格なのだが、歌手としては2流である。カルメン歌いでもない。この人こそ、ミカエラでもやればいいのにと思った。魅力的なカルメンの楽曲がすべてつまらなかったし、終幕のドラマは顔では怒った顔をしているが、声が怒ってないのでなんかね。
 リリアスバンチェスでの悪巧みや3幕のカルタのシーンでも5人で唄っていると、フラスキータの方が声が出ていたりするわけで、もう白けることこの上ないのです。
 歌がダメだから、懸命に演技でカバーしようとする。だから大げさな演技になっていく。ああ、これじゃカルメンじゃない。彼女自壊というわけです。ルックス100点、歌30点というカルメンで、このカルメンには最後までカルメンは出てきませんでした。このカルメンをいいという人、知らなさすぎます。
 ただ、スクルラーゼをちょっとだけ擁護するとすると、カルメンというのは本当に難しいオペラだし、カルメンは難しい役柄だということです。例えば、メトロポリタンオペラがヨハンナマイヤーをカルメンにして日本に持って来た。ドイツオペラの最高峰のスターではありますが、ラテンの血を感じさせるカルメンではなかった。ゲルギレフがマリンスキー歌劇場の来日公演で取り上げた。しかし、全員が怒ってる?わけではないけれど、声を出しているだけのカルメンで、これもカルメンとしては魅力がないなあと思った次第。日本では1980年代にロイヤルオペラの来日で、バルツアとカレーラスで上演があった。このカルメンは素晴らしかった。2回見たけれど圧倒的。バルツアはその後、藤原歌劇団でカルメンを唄ったんだけど、もうダメだった。難しいんだなあと思った。このロイヤルオペラの公演以降で、日本でこれは!と思えるカルメンを聴けたのは、2004年に藤原歌劇団がオランジュ音楽祭と共同制作したカルメンで、この時はチョンミンフン指揮、フランス国立フィルハーモニー管弦楽団がピットに入るという豪華版。歌手もドンホセがスコーラだった。カルメンはセメンチュクという人だったけれども中々良かった事を覚えている。この時も実はキャストが3人入れ替わったんだけれど、チョンがきちんと連れて来たんだろうと思う。
 と、記憶を辿っていくと、カルメンを欧米のそこそこいいオペラハウスが来日公演に持ってくる事はないのです。危険すぎるんでしょうね。さて、このボローニャ版、カルメンのいない「カルメン」にも歌手はいました。ミカエラのコッツラディティとドンホセのアルバレスは、細かい事は目をつむりますが、声が出ているしやりたいことも分かります。ただ、アルバレスは役作りが雑。そして、二人ともカルメンが美しくエロ光線を出しているのに対して、ルックスがいま3くらいなんですよ。
 エスカミーリョのカイルケルセンは、ボクサー役で裸もみせなくちゃいけないので、ルックスも合格だし、演技もいいし、歌も声がいいので、いちばんバランスが取れていたと思う。しかし、歌が歌を歌うだけで、歌で演技をしている感じがしないんだよな。何かね、いい声を聞かせてもらったという感じで。そう、演技と歌がバラバラ。ちょっと悪な演技と、超優等生な歌って感じ。
 演出は、1990年代のキューバが舞台となり、タバコ工場は葉巻工場に、フラメンコはサルサに、闘牛士はボクサーに、山賊はボートピープルで脱出する人にと読み替えての上演です。でも、それがただ読み替えただけで、何も現代とつながってこない。何をやりたいのか全く伝わってきません。当日会場に来ていた、新聞で音楽評も書かれる僕の恩師とちょこっと話したんですけど、同意見。
 オケは酷かった。歌手とあってない。オケ自体も統率が取れず、ぐらぐら。マリオッティなる指揮者は遅めのテンポで通すのですが、そのテンポでは勢いでごまかす事ができません。もっと緻密なアンサンブルを聞かせてくれないと、もっと艶やかなフレージングで音を紡いでくれないとと思います。先ずはスコアの縦の音がきちんと揃うように指揮して下さいと申し上げたい。
 私の結論はカルメンを聴く限り、イタリア政府の文化予算カットの流れで、ボローニャは今までいたような一流の指揮者を置く余裕もなくなり、新演出も作れなく、(このカルメンは、ラトビア・オペラの演出の舞台装置を借りての上演。)ただいま急降下中ということだと思います。がっかし。

2011年9月13日 東京文化会館


ヴェルディ作曲「エルナーニ」
来日オペラハウスの初演になる。僕も生で見るのは初めての作品。

 「歌声は満喫。1960年代のような演出に唖然」
 アロニカ(エルナーニ)フロンターリ(ドンカルロ=スペイン国王)。フルラネットら男性陣はイタリアオペラを聴く、声の喜びを与えてくれた。しかし、前から思うのだが日本ではギリシア出身であることなどから第二のマリアカラスなどと持ち上げるテオドッツシュウが、必要以上に多いビブラート、得意不得意の音域があることなど、やはり超一流の歌手とは思えない歌唱でちょっとがっかり。別に彼女は不調というほどではないのではないか?彼女は10年ほど前のフェニーチェ歌劇場来日時の歌唱から4回ほど聞いているがいつもこんなものだから。
 オケは相変わらずだがマリオッティよりは数段良かった。ちゃんとオケがコントロールされ、きちんと合って演奏しているからという決して高いレベルでの評価ではないが。今宵の指揮はパルンボ。演奏直後に会場を離れたが、今宵はアンコール「行け、我が想いよ、黄金の翼に乗っ て」が唄われたとのこと。
2011年9月25日 東京文化会館

ベルリーニ作曲「清教徒」
藤原歌劇団などで見た事はあるものの、ピンと来なかった作品。最上の上演で自分の中にうまくインプットされるかな?

 「ランカトーレ唯一の欠点に泣く」
 ピューリタン革命時の悲劇を描くベッリーニのオペラ。「カルメン」に比べると天国と地獄ほどの差のある演奏でちょっと安心した。デジレランカトーレはヒロインのエルヴィーラ(輿入れした先よりも若い男がいいと走る)は狂乱の場を初めとして見事な歌唱。ただし、この人、破裂音の低い声になると発声がめちゃくちゃ変わって、そこだけアヒルのような音になってしまう。何とかそこを克服して欲しい。何かいけない地雷を踏んでしまったように興ざめしてしまうポイントだ。ジョルジョ(ニコラウリヴィエーリ)は2幕の最後の二重唱できちんと聞かせ、シラクーザは超名演とは言えないが、安定感のある声を聞かせてくれた。シラクーザの声はしかし特徴がありすぎで、何となくロッシーニにやっぱりあうなと思った。何か声が変なのだ。というより面白い声なのだ。
 清教徒、エルナーニのどちらにも言えるのだが、演出も美術もあまりにも普通過ぎ。どちらもそこそこ奇麗なのだが、それだけ。そして、合唱もソロも、何か立ち止まって客席目線で浪々と唄うだけ。
 イタリアオペラで声を楽しむということに徹すればいいし、それでほぼ満足なのだが、歌劇の劇の部分に関しては、1960年代のそれと変わっていないのではないかと思う。マリオッティの指揮はやはり傷だらけで、オケが合わないのが絶対的にダメで、聞かせようとくっきりずっしりやればやるほど、歌手が濃い表現しすぎなくらいの歌唱をしているので、しつこくもなるのだ。もうすこし、あっさりした方がいい。もしも、歌を聴かせる事で勝負したいと思うのならと思った。
2011年9月24日 東京文化会館
ヴェルディ作曲「オテロ」


Marco Armiliato/Conductor Andrei Serban/Stage director Peter Pabst/Sets

Aleksandrs Antonenko/Otello、Sergei Murzaev/Jago、Michael Fabiano/Cassio
Francisco Almanza/Roderigo、Renée Fleming / Desdemona、Nona Javakhidze/Emilia   Paris Opera Orchestra and Chorus



 パリオペラ座は先年来日し「トリスタンとイゾルテ」「青ひげ公の城」「」を上演した。非常にモダンな演出であった。パリオペラ座バレエは、現代のバレエと古典の名作をバランス良く日本に持ってきてくれるが、パリのオペラ座は来日自体がまだ1回だけなのである。何年に一度はパリにいく機会があり、バレエは「白鳥の湖」と「バヤデール」「ベジャールの夕べ」と観た事があったが、オペラは「マハガニー市の興亡」というクルトワイルの渋いオペラを観ただけだった。で、今回パリに行って1日だけオペラを観ることのできる日があってガルニエで古典的な「コシファントゥッテ」、そして、バスチーユでモダンな「オテロ」をやっていた。チケットがとれる方で観ようと思ってボックスオフィスに行ったら、どっちも最高席でとれるのである。迷ったあげく、ルネフレミングが歌うというので、「オテロ」となった。
 来日時に観た「トリスタンとイゾルデ」と同じように、舞台上にイメージ映像を重ねて行く。例えば、今回は冒頭の嵐のシーンで、波の映像だったりするわけで、正直うるさい。それだけでなく、稲妻や嵐の効果音まで入れるのだ。うるさい。
 ということで映像はうるさいのだが、舞台セットは簡素なもので、観客としては音楽と歌手の演技に集中できるものだったからいいのだろう。しかし、モダンな演出になったかと思えば、非常に古典的なものが入ってきたり、京劇の影響が出ていたりとバラエティ豊かというか、バラバラな感じなのである。衣装のことはあまりよく分からないが、こちらもモダンだったり、原作に忠実な感じだったり、時代や場所が少しずれるようなものも混ざっているように思えた。
 作品の普遍性を出したいのかなあと思ったくらいに、何かね。
 しかし、音楽はゴージャスそのものだった。イヤーゴを歌ったムラレフは演技も見事で堂々としたもの。最後はみんな死んでイヤーゴだけ生き残るという演出でありましたけど、この悪役ぶりじゃ生き残るねという感じだ。ロシアの歌手に悪役やらせたら本当にいいなあ。オテロのアントネコは徐々に調子をあげたが、未熟で嫉妬に走ってしまうという子供っぽい部分ばかりが見えていた。ルネフレミングはきっとキャリアの終わりに近いだろうが、長く歌う事もないからだろう。柳の歌を頂点に非常にコントロールされた、しかし女性らしい見事な声を聞かせてくれた。
 合唱もよかったが、オーケストラの音がゴージャスだった。ヴェルディでもシェークスピア原作の作品として重厚な音をだした、ムーティ/スカラ座の来日公演。メトでも観ているが印象は強くなく、今までの最高はムーティ/スカラとともに、20年以上前にロンドンのロイヤルオペラで観た、キリテカナワ/ドミンゴ/クライバーのそれだった。今宵の公演はそれと十分比較できる質の高い物だった。パリオペラ座の管弦楽がとにかく明るくヴェルディの音楽を楽しく奏でていたのが印象的だった。

2011年6月28日 パリオペラ座(バスチーユ)
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プロフィール
HN:
佐藤治彦 Haruhiko SATO
性別:
男性
職業:
演劇ユニット経済とH 主宰
趣味:
海外旅行
自己紹介:
演劇、音楽、ダンス、バレエ、オペラ、ミュージカル、パフォーマンス、美術。全てのパフォーミングアーツとアートを心から愛する佐藤治彦のぎりぎりコメントをお届けします。Haruhiko SATO 日本ペンクラブ会員
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