自ら演劇の台本を書き、さまざまな種類のパフォーミングアーツを自腹で行き続ける佐藤治彦が気になった作品について取り上げるコメンタリーノート、エッセイ。テレビ番組や映画も取り上げます。タイトルに批評とありますが、本人は演劇や音楽の評論家ではありません。個人の感想や思ったこと、エッセイと思って読んで頂ければ幸いです。
「ディオニソス組曲」振付:モーリス・ベジャール 音楽:マノス・ハジダキス
ディオニソス:オスカー・シャコン
ギリシャ人:マルコ・メレンダ
ゼウス:ジュリアン・ファヴロー
セメレー:カテリーナ・シャルキナ
マヌーラ・ムウ*:リザ・カノ(*ギリシャ語で"私のお母さん"の意)
タベルナ(居酒屋)の人々 ギリシャの女:リザ・カノ 上流社会の婦人:マーシャ・ロドリゲス
アナーキスト:フロレンス・ルルー=コルノ 娘:ジャスミン・カマロタ
二人の水夫:那須野圭右、ヴィタリ・サフロンキーネ 労働者:フェリペ・ロシャ ジゴロ:ローレンス・リグ 学生:ウィンテン・ギリアムス、エクトール・ナヴァロ 船長:アンジェロ・ムルドッコ ならず者:ファブリス・ガララーギュ ギリシャの農民:ホアン・ヒメネス 若者:大貫真幹
他、モーリス・ベジャール・バレエ団
「シンコペ」振付:ジル・ロマン 音楽:シティ・パーカッション
序曲:ガブリエル・アレナス・ルイーズ-エリザベット・ロス
水滴の踊り:カテリーナ・シャルキナ-オスカー・シャコン キャサリーン・ティエルヘルム-ホアン・ヒメネス ジャスミン・カマロタ-マルコ・メレンダ、キアラ・パペリーニ- エクトール・ナヴァロ フロレンス・ルルー=コルノ-ウィンテン・ギリアムス
ソロ:ガブリエル・アレナス・ルイーズ
トリオ:カテリーナ・シャルキナ-オスカー・シャコン-ホアン・ヒメネス
パ・ド・ドゥ:アランナ・アーキバルド-ガブリエル・アレナス・ルイーズ
パ・ド・ドゥ:カテリーナ・シャルキナ-オスカー・シャコン
白衣の踊り: キャサリーン・ティエルヘルム、シモナ・タルタグリョーネ、フロレンス・ルルー=コルノ、キアラ・パペリーニ、リザ・カノ、エクトール・ナヴァロ、マルコ・メレンダ、ウィンテン・ギリアムス、ホアン・ヒメネス
パ・ド・ドゥ:コジマ・ムノス-アンジェロ・ムルドッコ
若者の踊り:ガブリエル・アレナス・ルイーズ、オスカー・シャコン、エクトール・ナヴァロ、
マルコ・メレンダ、ウィンテン・ギリアムス
ソロ:エリザベット・ロス フィナーレ:全員
「ボレロ」振付:モーリス・ベジャール 音楽:モーリス・ラヴェル
メロディ:エリザベット・ロス
リズム:那須野圭右、マルコ・メレンダ、アンジェロ・ムルドッコ、イェー・ルッセル
他、モーリス・ベジャール・バレエ団 東京バレエ団、東京バレエ学校
ベジャールは時の流れの中で残るだろうか。
モーリスベジャールバレエ団は何回か見ている。主に来日した時が多いのだが、テルアビブでも見たことがある。ただ、演目がヘブライ語で書かれていたので何を見たのかも未だに不明だが。
ベジャールは有名な「ボレロ」「春の祭典」「火の鳥」といったいわゆるクラシックの名曲に振付けをつけたものも少なくないが、東京バレエ団につけた「ザ・カブキ」や「M」以降は、どんどん演劇化していく。例えば「第9」に振付けをしたものをパリオペラ座の来日公演でみたが、何じゃこりゃという良くわからない作品になっていた。また、日本の歌舞伎や日本舞踊、ギリシアやインドの土着というかエスニックな文化への傾倒ぶりも顕著だった。
今回モーリスベジャールバレエ団によって上演された「ディオニソス組曲」は元々1984年の振付け作品の一部を抽出して再編成されたものらしいが、この演劇的要素とエスニック文化への傾倒の要素が見いだされる作品となっている。
ディオニソスとは、若いゼウスの意味であり、我々には酒の神であるバッカスとして知られるギリシア神話の神のひとりである。バッカスと若いギリシア人が対峙し思いを共有し陶酔の中で時を過ごして行く。その世界観も作品構造も鈴木忠志と似ているところがあるけれども、それを演劇でなく踊りとして、視覚的に感覚的に客席に届けようというのがベジャールのすごいところ。
観客はニーチェ的な思索を施しながら作品に対峙するのではなく作品=踊り手の熱狂から発散されるエネルギーと自らの内在する根源的なものと反応しつつ体内アドレナリンの分泌が感じられると上演として成功ということなのだろう。
ジュリアンフェブローのゼウスも演劇的才能も感じるマルコメレンダのギリシア人も良かったが、那須野圭右の水夫がとても良かった。この人のもつ圧倒的なスピード感と、回転する時の身体に通る軸のぶれのなさは他のメンバーを圧倒していた。発散されるエネルギーは会場中を静かに支配していくのを感じた。
この人はこの日の最後に踊られた「ボレロ」でも同じ様に素晴らしいリズムの一員であった。ベジャールの「ボレロ」は彼の代表作であるだけでなく、歌舞伎の忠臣蔵、オーケストラの第9のように、踊ることが許されたバレエ団に取っては未だに集客力抜群の演目である。
今回もこれ目当てで来た人もいるのだろうが、どうだろう。今回の「ボレロ」はそれほど良かっただろうか?
映画でのジョルジュドンのそれを観た後、パリオペラ座バレエ団の来日を最初にもう20年以上もそれこそ、いろんな人があの赤い円盤の上で踊るベジャールの「ボレロ」を見て来た。
今宵のエリザベットロスのメロディは美しいし奇麗に踊っていたが、例えばシルヴィギエムの踊る場合に発散される挑発的なエネルギーを彼女から感じることができない。
「ボレロ」は革命である。真ん中でで独り踊り続けるメロディが発散されるエネルギーが他のダンサーに次第に伝播して全員が熱狂で終わる革命の踊りである。それが彼女からは感じられなかった。熱狂は踊り手が狂っていないと生まれない。それは、ひとことでいうと、最高の技術を持つ人が更なる高みを目指してぎりぎりやってくれないと、失敗のリスクと隣り合わせに踊ってくれないと生まれないのである。
間に挟まれた「シンコペ」はベジャール亡き後、ジルロマンによって生み出された作品である。スピード感にあふれ、ユーモアもあり見ていて飽きない作品になっている。ジルロマンはベジャールの影響から逃れようと必死にもがいて生み出したという印象を得た。面白いけれど残らない。そんな作品というのが僕の感想。
なぜか。ベジャールの2つの作品に挟まれてみると、圧倒的に何かかけているように思う。それが、これだ!と今すぐに僕は断定できない。ただいま見ていて思ったのは、ベジャールは肉体表現の新境地を切り開いた。それは、人間の身体について真正面に向い合ったからだと思う。
ダンス表現として身体に対してジルロマンがどう対峙したのか、その軌跡を結果として感じることができなかったからではないか。つまり、彼にとっての、「肉体の定義」が提示されないからだと思う。ベジャール作品は、晩年のものなど、こんなことをやりたいのなら、ダンスでなく演劇でやった方がいいのではないか?と思う作品も少なくなく見るのも嫌になったものだが、こう並べて観るとその「肉体の定義」の深さ「ダンスの世界観」の確かさを強く感じられて興味深かった。
Aプロ 2013年3月5日@東京文化会館
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佐藤治彦 Haruhiko SATO
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男性
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演劇ユニット経済とH 主宰
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海外旅行
自己紹介:
演劇、音楽、ダンス、バレエ、オペラ、ミュージカル、パフォーマンス、美術。全てのパフォーミングアーツとアートを心から愛する佐藤治彦のぎりぎりコメントをお届けします。Haruhiko SATO 日本ペンクラブ会員
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