佐藤治彦のパフォーミングアーツ批評 ルドルフブッフビンダー ピアノ演奏会 忍者ブログ
自ら演劇の台本を書き、さまざまな種類のパフォーミングアーツを自腹で行き続ける佐藤治彦が気になった作品について取り上げるコメンタリーノート、エッセイ。テレビ番組や映画も取り上げます。タイトルに批評とありますが、本人は演劇や音楽の評論家ではありません。個人の感想や思ったこと、エッセイと思って読んで頂ければ幸いです。
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ルドルフ・ブッフビンダー[ピアノ]

リサイタル
ベートーヴェン/ ピアノ・ソナタ第8番 ハ短調 作品13 「悲愴」
ピアノ・ソナタ第23番 ヘ短調 作品57 「熱情」
シューマン/交響的練習曲 作品13

アンコール
シューベルト/即興曲、
J.シュトラウスII=グリュンフェルト/ウィーンの夜会(喜歌劇《こうもり》等のワルツ主題による演奏会用パラフレーズ)



協奏曲《ブラームス:ピアノ協奏曲全曲演奏会》
クリスティアン・アルミンク[指揮]
新日本フィルハーモニー交響楽団[管弦楽]
曲 目 ブラームス/ ピアノ協奏曲第1番 ニ短調 作品15
ピアノ協奏曲第2番 変ロ長調 作品83

「ポリーニとは別の、オーストリア系の、しかし現代的な」
 11年前にブレンデルのリサイタルを初台のコンサートホールできいた。もちろんそれ以降もピアノのリサイタルは聞いてきたのだけれども、どうもぽっかり抜け落ちていた穴を埋めてくれたようなコンサートだった。
 例えばベートベンのピアノを誰で聞いて来たのかと考えると、バックハウスやグルダ、ゼルキン、ケンプ といった人達で、ホロヴィッツでも、ミケランジェリでもなかった。オーストリア系のピアニストとだった。ギレリスなんかも良かったけれども、これらの系譜として扱って良いのだろうと思う。
 1980年代となってこれらのピアニストが一線から退いたあとにフォーカスされたのがブレンデル(クロアチア出身)である。ところが彼は、3回もベートーベンのソナタの全集を録音しているのに、彼のシューベルトと比較するとその演奏は注目されなかったと思う。それは、バックハウスからの流れのそれだからかもしれない。ブレンデルもバックハウスらの巨匠と比べると、単なる良いピアニストでしかなかったのだ。一方で、そこに登場したのがポリーニで、彼がベートーヴェンに切り込んで来たのが80年代からだと思う。もう20年以上前だと思うのだが、彼の「熱情」ソナタをで生で聞いた時にこれは別物だと思ったものだ。
 そして、大きな支持を得ていくのである。ブレンデルの生演奏も聞くのはシューベルトが多かったと記憶している。オーストリア系のピアニストといえば、イエルクデムスなんかもいたわけだけれど、何かトップピアニストの系譜に切り込んでこなかったし、内田光子は、その系譜のはずなんだけれども、もっと独自の世界。
 何をいいたいかというと、ベートヴェンでさえもポリーニ的な世界に引き込まれていったのだ。デジタル時代に、ベートーヴェンの王道でさえもポリーニへ聴衆は支持を与えたということだ。
 それはイタリア的というか、光沢感のある音の粒が立っている音が光を放つ演奏なのだ。美しさが際立つ、誰にでも分かりやすいセクシーな演奏だ。まるでルネサンスの彫刻のようなのだ。それとは対極のオーストリア系のピアニズムの演奏は11年前にブレンデルの演奏をきいていらい遠ざかっていた。
 しかし、今宵きいておもった。やはり王道はこちらなのである。
 昨年末にきいたオピッツに懐かしさを感じたのも、その抜け落ちた何かを埋めてくれる存在だったからかもしれない。今宵、ベートーベンとシューマンの演奏をきいて、それを確信した。そして、ブッフビンダーはブレンデル引退後、きっとチラシなどの広告にあるようにウィーンの香りを運んで来てくれるオーストリア系演奏家の頂点のひとりであるということだ。
 音の粒というよりもパッセージや構成で勝負する。ところがブッフビンダーはブレンデルなどとも違う意味合いがある。それは、オーストリア系なのだけれどもとても現代的なのだ。例えば、悲愴の冒頭のゆっくりとしたテンポがプレストに映ったとたん景色は一変するのだが、その切り替えのギアチェンジが見事で、聞いている方が飽きない。デジタル時代のウィーンの演奏といっていいものだった。
 それは熱情ソナタでも遺憾なくはっきされ、楽章ごとに周到に考えられた飽きさせないピアニズムであった。そう考えてみるとブレンデルの演奏には、時おりどこか学究肌の、こうあるべきてきな匂いがしたものだが、それが彼には全くないのだ。後半のシューマンで、ああこのピアニストは続けて聞く価値のある存在だなあと強く思わせてくれた。
 そこでも、ポリーニ的なものとは明らかに何か別の世界のピアニズムを築いている。それが、少し時代に取り残されそうになったウィーンの、オーストリアのピアニストの反撃のようで面白かった。(6月16日)

 「協奏曲を聴く楽しみ」

 新日本フィルはかつて長いこと定期会員だったのだが、この10年近くはすっかりご無沙汰だ。昨年、チッコリーニにモーツアルトのコンチェルトと共演するのを久々に聞いたが、本当に粗くてひどい演奏だったので、正解だったなと思ったくらいだ。2003年からアルミンクがシェフになってから、一度も聞いていないことに気がついた。そして、来シーズンで退任が決まっているアルミンクを初めてきいた。アルミンクはオーケストラに、とにかく節をつける。無理矢理唄わせるという感じなのだ。聞きながら、ああやり過ぎ、ああ、品格ある日本人って本読ませろ、みたいに突っ込みをいれていた。オーストリア人だが。
 オーケストラはチッコリーニの時と比べると別の団体かと思うくらいに素晴らしいハーモニーを聞かせていた。弦のセクションも、例えば2番コンチェルトの3楽章アンダンテの冒頭の響きなど極上もの。チェロなどソロも素晴らしい。サイトウキネンかよ、と思うくらいにお互いの響きが聞こえていて、共振し美しいハーモニーが届く。ところが、4楽章に入ってフィナーレに近づいて、テンポが早く、高音なども出て、強音を求めるところになると、とたんにそのアンサンブルは落ちてしまう。アルミンクの要望に応えて意識がアルミンクに行き過ぎると、お互いの音は聞こえなくなり、合奏力は落ちてしまう。ううううーーーん、残念。
 1番コンチェルトでの管楽器のアンサンブルの聞かせどころの部分など、素晴らしい音で吹いているのに、フレーズの締め方が女々しく下品になっているのは、アルミンクの指示と見た。なぜなら、全体にそういうトーンだったから。
 アルミンクは、これぞアルミンクのブラームスという痕跡を残そうと必死になっているように思えて仕方がない。それよりは大ブラームスの前にひざまづいて、スコアに書いてあることを忠実に、オケの合奏力を極限まで高めることだけに集中した方がどれだけいいのかと思ってしまう。
 なぜなら、こうして痕跡を残そうと必死になるオケに対し、ブッフビンダーは、土曜日にきいたリサイタルと同じく、中庸の徳を行くのである。嫌らしい痕跡は何もない。ただ音楽を素直に弾く。ひとつひとつのフレージングを大切にし、内面から沸き起こってくる感情に忠実に弾く。オーストリアの演奏家としての王道を行きつつも少し輪郭をはっきりさせることを意識したという感じだ。
 しかし、これらも老成VS若さの競演と思えばいいものかもしれない。少なくとも協奏曲を聴く楽しみをドカーーーンと与えてくれた。先日の若林さんに聞いてもらいたいピアノだった。2012年6月19日


2012年6月16日&19日@すみだトリフォニーホール
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プロフィール
HN:
佐藤治彦 Haruhiko SATO
性別:
男性
職業:
演劇ユニット経済とH 主宰
趣味:
海外旅行
自己紹介:
演劇、音楽、ダンス、バレエ、オペラ、ミュージカル、パフォーマンス、美術。全てのパフォーミングアーツとアートを心から愛する佐藤治彦のぎりぎりコメントをお届けします。Haruhiko SATO 日本ペンクラブ会員
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