佐藤治彦のパフォーミングアーツ批評 演劇 忍者ブログ
自ら演劇の台本を書き、さまざまな種類のパフォーミングアーツを自腹で行き続ける佐藤治彦が気になった作品について取り上げるコメンタリーノート、エッセイ。テレビ番組や映画も取り上げます。タイトルに批評とありますが、本人は演劇や音楽の評論家ではありません。個人の感想や思ったこと、エッセイと思って読んで頂ければ幸いです。
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アンドリューロイドウエッバー作曲



 何回目のキャッツだろう。1980年代にロンドンのニューロンドンシアターで見たのが最初。次はブロードウェイのウィンターガーデンシアター。もちろん、劇団四季のキャッツも見た。でも20年くらい前。おそらく品川で見た。そして、実は昨年、バンコクでロンドンからのカンパニーが来ていたので見た。それがホントに久しぶりで、ああ,面白かったと思ったのだ。
 4月に劇団四季のウィキッドを見て、ものすごい力に圧倒されて、まったく新しい四季像をもって、今回約20年ぶりに見た。先ずは20年前と違うところ。身体能力がものすごく上がっていた。軽く踊っている。もう、だれもナンバーが終わったときの決めポーズで息が切れていない。スゴいなと思った。身体も良くなったし見栄えもする。そして、これほどまで日本語の言葉をきちんと伝えてくれて、今までもやもやと20年間も引っ張って来た部分も解消。
 でもさ、何かダメなのだ。何かね80点をきちんと取ることを考えてしているようで、全力感がないんです。危なさがないんです。だからドキドキ感がない。役者にドキドキ感がないんです。慎重さはあっても。
 根本的な問題は、未だにカラオケで歌っていることじゃないかなあ。あれカラオケだよね?生オケじゃないよね?
 芝居って、その日のノリでほんの極僅かなものかもしれないけれど、違ってくるのが当たり前。
 役者の呼吸やノリを考えて、オケも微妙に変わったりする。だから指揮者がいる。だから生演奏でやる。金が掛かる。でも、それ、それ、それが大切!!!!
 生の人間が機械の出す録音に合わせるのじゃダメだよ。それが問題の根本だと思うんだよなあ。
 何か合わせることばかりしているからか、音が大きく外れたひとが二人もいた。それ以上に、何か新鮮な気持ちで役をクリエイトしているのではなく、それよりも、段取りに合わせることに集中しているように思えて仕方がない。ウソの笑顔、ウソのテンポって感じ。もちろん、カラオケのテンポで気持ちが毎日がピタッとあって、いまそこで起きているように再現できればいいのだけれど、できないよ。いや、あれだけ段取りが多ければ無理?先ずは失敗しないように、段取りをはずさないようにと守りの芝居になる。攻めじゃなくなる!
 もちろん素晴らしいんですよ。でも、一番重要なハートがね。段取りの次の2番目じゃダメなんです。もちろん稽古で目標とするものがあってそれを基準にしてやっていいんだけれど、オケがこのテンポで出てくるって、万分の1も狂わないって分かっているからそれに対する緊張はゼロじゃないですか?合わせる緊張感だよね。もしも、その日の体調や気持ちで万分の1でも昨日と違っていたら、プロの指揮者は気がついて併せたり、併せようとしたり、そこに緊張感が生まれて生になる。生の演技になる。でもね、録音だとそうではなく、機械、録音、記憶に合わせるしか方法がないんだよね。
 僕の隣の親子が1幕の終わりに、ああ、中だるみするなあといって帰っていたのですが、それは、それが原因ではないかなあ。何しろ、メモリーにまでそういう思いを持ってしまったから。
 それから、あの発声。前述したように日本語はきちんと届きます。でも、きちんとテキストを伝えることにあまりにも専念していないか?テキストは言葉の情報だけでなく、そこに役者の気持ちを載せて届けることが必要ですよね。そこに個性を感じないんだよね。言葉が聞き取れなくても伝わることってあるんだよ。
 それがね。ハートがね。テキストだけでなく、そこに載せる気持ちを伝えようと、どちらかというとそちらの方が大切だという意思が、去年のバンコクでみたイギリスからのツアーカンパニーでもみんなあるんだよね。それが、今宵は感じられなかった。
 後半になって、マキャベリティキャッツのナンバーを唄うディミータをやっていたレベッカバレットさんの唄をきいていて、ますます思った。彼女の唄が英語の部分だけリアルになるんです。マキャベティ イズ ノットゼアーっていうだけなんだけど、すげーリアルな言葉になる。彼女だけでなく日本語すべてにそれが言えるんです。ちなみに彼女のダンスにはハートがとてもあって良かったです。
 僕にしてみると、必死に声を出したり、滑舌をしっかりしてみたり、演技にメリハリつけたりしても、外国のや20年前の四季のをみた僕からしたら、それをしたらキャッツの肝をはずすことになるということなんです。気持ちね。心。そういう観点からすると、メモリーを唄うグリザベラ、おばさん猫のジェニエニドッツ、役者猫のオールドシュトロノミーが今宵は全滅でした。後半になって、「さっきのティミータと、中国人俳優 金子 信弛さんがやるミストフェリーズがものすごく取り戻してくれた。特にミスとフェリーズはものすごい身体能力をもったダンサーがぎりぎりやってる感が伝わって来てスゴかった。あれです。富田が金メダルの富田がオリンピックで体操の演技をするときの緊張感が伝わってくるんです。
 
 ウィキッドのカンパニーが、スゴくリアルで、ミュージカルにものすごいハートをいれて作品のいちばん伝えたいことを伝えていた。それは、伝えたいところを大きな声で言うわけではもちろんない。リアルな人間関係をリアルな芝居で舞台上でやっているだけのこと。ミュージカルもダンスもそう。それが、今宵の劇団四季キャッツのカンパニーにはあまり感じられなかったのが残念。
 しかし、素晴らしい身体能力をもった俳優が山ほど要るなあと思いました。ブロードウェイに挑戦してくれる人が出てくると面白いなとも思いました。身体能力ではもう1歩もひけをとっていないのだから。


五反田キャッツシアター
2008年6月3日
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作  平田オリザ
演出 成井市郎
出演 坂口芳貞 加藤武 川辺久造 新橋耐子 ほか

 とても面白かった。演劇をみる楽しさを味わうことができた。感謝。平田オリザさんの作品の中でももっとも見やすい作品の一つだと思う。時間があっという間に過ぎて行く。文学座のように名うての役者が多くいて、年齢層も広いところに書く平田さん。いつもと同じように、家族やコミュニティの問題。人と人とのことを丁寧に描いている。それを描く背景に選んだのが東京におきた大震災の復興途中というもの。そして、人と人との関係の中からこそ、さまざまな社会や地域や世代の問題が噴出する。
 演技に関しても、この大御所揃いの座組の演技に、僕がコメントすることはなにもない。素晴らしい。スゴいのは年齢が上の方のお芝居。上手いのか、味があるのか。それは、盆踊りみたいなシーンがちょこっとあるのだが、そこに象徴的にでていた。大御所は身体のキレは若者に劣るのだろうが、ホントに踊っているし、無駄な動きがない。ところが、若い人には時折、振りつけられた痕跡が少し見え隠れする。ここでこんな踊りするのに、そんな腰を折り曲げて踊るかよ?みたいな突っ込みを入れたくなった。でも、それも大御所と一緒だから目立ったんだと思う。いや、もちろん素晴らしいんです、若手も。

 上手い演技から味のある演技、好かれる演技へとつなぐのに必要なものが見えたような気がした。

 いづれにせよ、文学座は大成功したこの作品を再演すると思う。いやして頂きたい。

 最後に。この上演の成功はこの一回の公演で生まれたわけではない。文学座と青年団のこの数年間の綿密な交流から生まれたものだ。毎年何本も協業して小さな劇場で上演を重ねて来た。混じり合い影響を与えながら積み重ねたものなのだ。丁寧に演劇を作ることの大切さを思い知らされたのである。

 





2008年6月1日
紀伊国屋サザンシアター
作  原田宗典
演出 大谷亮介
出演 大谷亮介 伴美奈子 草野徹 さとうこうじ 水内清光 ほか

 やっと壱組印を観られた。大谷亮介さんの素晴らしさは、もう幾つもの舞台で見知っていたから今更とか思っていたのです。が、違った。ここでの大谷亮介さんの素晴らしさは、筆舌に尽くし難く重厚かつ軽妙で、ものすごい技術力をもって舞台に望むのだが、それを表にこれぞと出すようなことはしない。すべてがいま人間の内から沸き起こるものとして送出されていく。表現というか、演技というかそれを越えているものなのだ。役をなぞる演技ではまったくない。瑞々しさにあふれた名演!講演が終わったあとの去る姿。その後ろ姿。歩いて行くその姿は、あああ、あの人だ。何と、チャーリーチャップリンが「街の灯」や「ライムライト」で見せた姿とだぶる。
 それに、草野徹さん!この人もこんなにスゴい人だとは。いや、今までも幾つもの舞台での演技を観て来て上手いのはしっていたが、これほどコメディも堂々とされる。素晴らしい。さらに草野さんの演技をみて感じたことは、草野さんがスゴく役を慈しみ大切に育てあげているということ。お芝居を見ていると、主演の役者さんだと、すごい集中力をもって力を入れるシーンと少し遊んでいる?シーンがあったりする。草野さんは、そういう濃淡がない。ひとつひとつをホントに丁寧に作り上げておられる。何かお芝居をする大変さと難しさがすこし分かって来た自分は、それがとても感じられて泣けてきた。自分は技術もないのに、自分の役をこれほど愛して舞台に立ったか?舞台に立つ者としての大前提を突きつけられたように思った。草野さんは、大谷さんが登場する前までの舞台をそういう誠実さで背負った。そこに、佐藤こうじさんの独特の笑いの世界が加わる。ものすごい間の取り方と台詞の音程の素晴らしさ。表情や身体の使い方も本当にプロの中でも超一流。また、扉座の看板女優の伴美奈子ちゃんがまたや大ホームラン。伴美奈子さんも、誠実一筋の人。今回もホントにそれを感じさせてくれた。そして、いやあ、面白い。上手い。すごいなあ。
 終盤の小林秀雄の講演会のシーン。20分に渡る独り台詞は、大谷さんのものすごさが分かる名シーン。まったく飽きないし途切れないどころか、小林秀雄の世界がどんどんと心と頭に入ってくる。しかし、このメンバーだったら、台本がなくても、いやどんな台本でも、とにかく面白くなるんだと。え!?。いやあ、とにかく面白かった。大谷さんがスゴかった。
 
 僕は今日、秘かな野望を持ちました。いつの日か、大谷さんや草野さんと…。





2008年5月28日
新宿THEATER/TOPS
作  水谷龍二
演出 加納新平
出演 ベンガル 藤谷美紀 上杉祥三 山田まりや 大沢健 小宮孝泰 でんでん 山本ふじこ(東京ヴォードヴィルショー)

 笑った。じ−んとした。NHKテレビで放送された作品の舞台化で笑いの要素が一段とパワーアップされていた。ベンガルさんと上杉さんがアドリブを交えながら、舞台上で真剣勝負の笑い合戦。特に上杉さんがこれでもかと、壊れてベンガルさんに挑むとベンガルさんはキートンのようにボケる。いやあスゴい。同じように大沢健さんもベンガルさんに挑む!!それに、でんでんや小宮さんがいるのだから笑いのレベルはパワーアップ。山田まりやさんはキャピキャッピ娘役なのだが、結婚を前後にますます素晴らしい俳優になったと思う。藤谷美紀さんもキレイで素敵なのだが、僕は山本ふじ子さんに釘付け。いやあ素晴らしい。名う手の個性派揃いだからと、埋没しないようにそれに対抗するのではなく、むしろ演技の王道を追求するのである。ひとつひとつのリアクションや佇まいが、場面の空気の通奏低音になっている。見事なコメディアンヌというのは、こう言う女優をいうのではないか!!見て良かった!!




2008年5月26日
シアター1010

作 TARAKO
演出 中尾隆聖
出演 TARAKO 渡辺菜生子 桂憲一(花組芝居)黒川薫(グリング)半海一晃 ほか

 TARAKOさんが出てくると会場が沸くのである。ものすごいテンションで一気に物語に火をつけたのである。彼女のイメージは、メアリーポピンズか、マリアか。いや、彼女自身で作り上げたそれである。時に、あれ!???と思う瞬間はあるのだが、それを越えて存在しているのである。後方の座席から見ていて、テレビアニメの声と違うので、この人じゃないよなあと思っていた。何しろ声優さんのお芝居は独特のアニメ声で押し通されることが多いからだ。彼女は違った。
 もちろん数あるお芝居の中で最高峰のそれではないかもしれないが、客席が楽しんでいることは間違いない。小劇場では名うての桂さんや黒川さんは、自らの仕事をきちんと行いながらも、このTARAKOパワーに押しまくられていたのではないか?



2008年5月25日
シアターV赤坂

作・演出/出演 長塚圭史
出演 奥菜恵 中山祐一郎 伊達暁

 ネットでの評判はすこぶる悪い。それでもベニサンピットに超満員の観客だった。それも、今までみたベニサンピットの芝居の中で一番多くの観客がいたのではないか?300席ほどの客席は会ったように思う。そして、通路席まで満杯の客。スゴい人気である。芝居の内容もそうだけれど、観客の様子も気になった。1時間40分の芝居だが、30分くらい経過した時点で集中力が切れてしまい飽きてしまった客が少なくなく、目をつむったり眠ってしまうお客さんもいた。それも少なくない。

 芝居は、僕に言わせれば、別役実ばりの不条理劇で、電柱とベンチとくずかごと落ち葉がある。何かそういうのも、不条理っぽい記号である。それに、丁寧に側溝もあるし、それが囲まれた空間にはねじ曲がった扉がある。出口という扉の向こうにもまた同じ世界が広がり抜け出せる感じはない。

 物語は解体され登場人物の関係性のゆらぎだけが一貫して演じられて行く。中山祐一郎はその中でものすごいパワーと、戯曲に対する信頼感をもって、この世界の登場人物を全うする。そして、世界の登場人物に実生活も不条理的な匂いがする奥菜恵が素晴らしい演技を見せる。その中に登場する伊達暁も一番まともそうで、やはり同じ穴のむじな系なのである。長塚圭史は、このような不条理劇の嗜好がある。そういう作品を愛する傾向があるのは前から分かっている。この観客の反応は、数年前の公演(それは阿佐ヶ谷スパイダースとしての公演ではなかった)、観客から不評の嵐だった三好十郎の「胎内」の時を思い起こさせた。あのときも確か奥菜恵ではなかったか?

 阿佐ヶ谷スパイダースの公演は長塚圭史が物語を信じて作劇してきたように思う。時に長塚ノワールとまで言われた独特の世界観や空気感はあるけれども、そこには現代的な笑いも、確実に約2時間後に迎える終わりに向かって進む物語がある。きっと観客はそれを求めて阿佐ヶ谷スパイダースにくるのだ。しかし、今回は違った。
 長塚圭史の嗜好性として前々からある世界観ではあるし、それは従来の阿佐ヶ谷スパイダースの公演にも顔をのぞかせていたのであるが、今回は、それを前面に、いやそれで透徹して作品を作ることをした。別役実やベケットを知らない観客も巻き込んでしまった公演だったのだ。でも、長塚圭史は、阿佐ヶ谷スパイダースの公演として見に来る観客にこそ、これを、この世界を見て欲しかったのだ。
 今までの阿佐ヶ谷スパイダースの公演とは違う。違うタイプの芝居だ。だからこそ、観客は戸惑いを隠せなかったのである。こうなることを長塚圭史は知っていたはずである。戸惑った若い観客にとってみると5500円のチケット代の元が取れなかった気分になるのかもしれないが、今は面白いと思えなかったとしても、それは思えなかっただけで、これからの観劇の経験の中で、将来、あれ!今から考えたら,あのときの公演って面白かったんだ!と気づくことがあるかもしれぬ。いやそうなるものである。
 忘れないで欲しい。観客として大いに戸惑ったこの作品を、それを演じる中山祐一郎の渾身の演技を。あれだけ汗だくになり演じたあの姿を忘れないで欲しい。いや、忘れられないだろう。この作品を面白いと思ってみられなかった観客にとっても、それは、ずしっと心に刻まれたはずだからである。
 そういう意味で、この作品をみた一部の観客にとって、この作品と本当に出会うのは未来なのかもしれない。失われた時間を求めて。とても不思議なタイトルをつけたものだ。
 
 で、眠ってしまった観客はどうなるか。ある人は最初の30分は起きていた。途中から眠ったり起きたりだったかもしれない。それでも、5500円払ったのだから、全部で40分は起きてみていただろう。それなら大丈夫。この作品はワーグナーのオペラのように、最初から最後まで一貫した世界のゆらぎの妙を楽しむ舞台だから。自分の覚えている断片を手がかりに、やっぱり、この作品と出会う人が出てくる。そして、眠ってしまったことを「失われた時間を求めて」ってそういうことだったのかなと、中山祐一郎の白熱の演技とともに思い出すのである。

 不条理劇を観に行くときは、その観客も、今日は不条理劇を見るぞと準備してくるので、その世界に戸惑ったりする人は少数派である。しかし、今回の阿佐ヶ谷スパイダースの公演は違った。それは、まるでテレビのゴールデンタイムに詩吟とか将棋とか堅いニュース番組とか決して放送されない番組が放送されているみたいで、その世界に投げ込まれた観客と舞台と両方併せて観ると本当に面白かった。ロックコンサートと思って来てみたら、シューベルトの歌曲集を唄うみたいな。そんな感じ。そして、中山祐一郎の新境地となったと思う。

 いらっしゃいませ。不条理劇の世界へ。どんどんはまって行きますよ!!!

 ごめんなさい。書き直すかも!
 


2008年5月25日
ベニサンピット■■■
作演出 喜安浩平
出演  三科喜代 西山宏幸 篠原トオル ほか

 こんな感覚はこの数年もったことがない。サンモールスタジオでこのようなレベルの作品に出会えた幸せ。素晴らしい作品に出会ってしまった興奮。僕はまだ眠れない。新宿で4時間クールダウンしたつもりですが、まだダメです。とにかくスゴい、スゴいのさ。圧倒的な成功。絶対に面白い傑作。それも、一部の人のための作品でなく、全ての人に見てもらいたい素晴らしい作品。大変おこがましい言い方だが、この作品と同じレベルの作品を3つ世の中に出すことができたら、喜安さんは、それこそ、現代日本のトップの作演出家として広く評価されることになると思う。大変おこがましいが…。
 この作品は、誰もが通った時代のことを、現代的なテンポや感性、それも、誰もが共感できる普遍性を兼ね備えた傑作だ。作品が良いだけでなく見事な演技陣。センス、笑い笑い、センス!そして、じんわり来る感動。ほら、演劇に求めているのってこれじゃないですか!!!!!役者陣が、誰ひとり文句のつけ様のない理想的な演技をする。芝居が始まって20分たったら、客席全体が釘付けになり物語の中に幸せに浸っているのが手に取るように分かる。物語性と登場人物の関係のバランスのよさ。テレビドラマや映画関係者は素晴らしい原作が誕生した。すぐに版権を取るべく動くべし。喜安さんは、ナイロン100℃、ケラさんという枠を今回で完璧に外れ、喜安さんの世界観、作品として世の中が見るようになるだろう。いづれにせよ、今年屈指の傑作。数年後にあの作品はスゴかったよねといわれる作品であることは絶対に間違いがない。
 必見の作というのはこのことをいうのだ。後半はきっとチケットがなくなるだろう。何しろ傑作なのだから。



2008年5月22日
サンモールスタジオ

作 中村吉蔵
脚色/演出 和田憲明
出演 加納幸和(花組芝居)鈴木省吾 中川安奈 津田健次郎 小田豊 ほか

 和田さんはこういう作品もやるんだと思うと、何か不思議だった。作品は主人公である加納さん演じる為吉の人生の黄昏と絶望感から、殺意とそれを抑えることのバランスのいったりきたりのスリルとサスペンスが全編に渡り展開されるというもの。その気持ちは芝居の前半で吐露されてしまう。
 時々、このまま剃刀で喉をきって人を殺したくなる衝動があるのだと。
 加納さんの演じる為吉の、その後からの剃刀シーンはスリル満点のシーンになる。ああ、この人は殺人を起こしてしまうのではないか!不安と緊張が観客の心に走るのである。加納さんは、スリルを観客に増幅させたり薄めてみたり。嫌らしくなくやるのである。だから、リアルに感じられ、観客はただのひげ剃りシーンが続くだけなのに、ハラハラドキドキ。もちろん、上手い俳優だからこそできるシーンだな、とつくづく思った。
 和田演出に、加納幸和さんは、いつもの演技手法をかなぐり捨てて挑み成功。全編に渡り加納さんに釘付けになった。いやあ、怖かった。まるで目の前で人が殺される瞬間を見なくてはいけない、それ。ヒッチコック流のサスペンスでした。特に「裏窓」的なそれです。しかし、為吉の抱える絶望感は「ベニスに死す」に通じるもものもありました。残念だったのは一部のキャストがミスキャストだろと思ったこと。でも、加納さん、中川さんを中心に魅せてくれました。和田演出オソルベし。

 


2008年5月21日
THEATER/TOPS
作演出 横内謙介
出演  岡森諦 中原三千代 犬飼順治 キムナムヒ


 名演技を披露し記憶に残っている杉山良一はこの芝居をすでに三演おこなっている。今回は扉座の初の海外とのコラボレーション、海外公演もあったこともあり、そのバージョンとは別の地平線を切り開いた。今回の善治役の犬飼順治、キムナムヒの主演キャストはキムの美貌があり善治のすることの説得力が増している。犬飼の言葉を大切にする演技は淡々と謙虚でとても好感がもてる。日本語の台詞にハングルが混ざるキムナムヒの演技も彼女の設定を考えると何の違和感もなく、中原三千代、岡森諦の力強いサポートがあり、90分があっという間に過ぎて行く。ロウソクだけの照明は今でも非常に効果的で、客席の集中力を高めるのに非常に効果的だった。




2008年5月17日
六本木テレビ朝日多目的スペースUMU
作演出 西永貴文


 小劇場の芝居をみたり、小劇場関係の人と話していると、たいてい思う感想は、ああ、お芝居が好きなのだということなのだ。当たり前だ。貧乏生活を強いられてやり続ける芝居。芝居が好きでなければやれるわけがない。しかし、そこには大きな落とし穴がある。芝居をするために芝居を作ってしまうということなのだ。役者はまだいい。しかし、劇団で1年前に小屋を抑え公演をしている連中からすると危険そのものだ。芝居をするために、どんな芝居ができるかを考えるのだ。
 そこに、猫☆魂の西永貴文の芝居の違いがある。西永はまだ若く、作劇の手法については、まだまだ技術という面でのりしろが十分残された存在だ。僕が西永作品に対して好感を持つのは、その作品には、西永の表現したいものが先に会って、その表現手段として演劇という媒体が使われていると感じられるからだ。もしかすると、小説や、音楽や、絵画、バレエでもいいのかもしれない。先ずは西永が、世の中で感じていること、それも、浅薄でなく、人間として生きるときの大切な本質的な地殻変動についてのモノの味方があって、それに対して、どういう時にそれを感じ、どういう風に考えているか。そして、自分はそれに対してどう対峙してきたか。いきたいか。そういったものがキチンと土台にあって、作劇がされている。それも、一部の若手の劇団にあるような、自らの内側に閉じたそれではなく、きちんと世の中、そう、世界に向かって開かれたものなのである。
 表現したいことがある。世の中と真剣に向かい合って生きている。それだからこそ生まれる作品には時代性を強く感じるのだ。西永は決して器用にそれを処理しているわけではない。自らの葛藤もすべて舞台の上にあげている。それが、リアリティであり、根底にそれがあるからこそ、人々をゆさぶるのだ。
 劇団員にも小器用な役者がいるわけではない。どちらかというと、ハートで演技するタイプの俳優が多いように思える。嘘な演技、技術だけで見せる連中はいないような気がする。
 音楽の使い方がとても上手く毎回感心するのだが、今回もそうであった。
 耳観という言葉とその意味合いを最後に、東京タンバリンの森啓一郎が、さらりと言ってのけた。こういうのが本当に難しいのだ。
 演劇をするために演劇をするのではなく、自らを表現するために演劇という手段を使う。アーチストと職人の違いがそこにあるような気がする。
 
 


2008年5月16日
シアターグリーン ボックスinボックス
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プロフィール
HN:
佐藤治彦 Haruhiko SATO
性別:
男性
職業:
演劇ユニット経済とH 主宰
趣味:
海外旅行
自己紹介:
演劇、音楽、ダンス、バレエ、オペラ、ミュージカル、パフォーマンス、美術。全てのパフォーミングアーツとアートを心から愛する佐藤治彦のぎりぎりコメントをお届けします。Haruhiko SATO 日本ペンクラブ会員
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