佐藤治彦のパフォーミングアーツ批評 忍者ブログ
自ら演劇の台本を書き、さまざまな種類のパフォーミングアーツを自腹で行き続ける佐藤治彦が気になった作品について取り上げるコメンタリーノート、エッセイ。テレビ番組や映画も取り上げます。タイトルに批評とありますが、本人は演劇や音楽の評論家ではありません。個人の感想や思ったこと、エッセイと思って読んで頂ければ幸いです。
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作 チェーホフ
演出 坂口芳貞

「現代口語演劇との深い交流を経験した文学座のチェホフへ」
 ホールのロビーには過去の文学座の三人姉妹の公演ポスターなどが貼ってある。80年代には、新橋耐子さん、田中裕子でやったんだなあと思うとぞくぞくする。劇団は時代とともに変わるから、それと同じようなものを求めたりはしないのだけれども、演出は敬愛する坂口芳貞さん。期待せずにはいられない。僕は自ら招いてこの方の演出を受けた事があるのだが、俳優だけあって俳優の整理をすごく大切にされるのである。
 きっと俳優がやってくることを根本からねじ曲げて自分の世界に引きずり込もうと等とはされない。だから俳優にもきっと評判がいい。人づてに聞いただけなのだが坂口さんは三人姉妹がチェホフの中でも特にお好きだとも聞いていたので期待していった。文学座はこの10年で現代口語演劇の、平田オリザ、青年団との交流を物凄くもった。それも若い世代だけでなく劇団全体として尋常成らざる交流をもった。
 そのポスト現代口語の公演としてどうなるんだろうと興味津々だった。
 何しろテキストも坂口さんの奥様が訳しなおされている。言葉が現代のそれになっているのだ。舞台の美術は1幕が奥に長いディナーテーブル、手前にソファ。すべてを作り込むというよりはシンプルな美術。そこで物語が立ち上がるのである。
 僕の感想は、確実に現代口語の影響は受けたと思う。
 しかし、一幕の冒頭などでは、従来の大演劇の台詞廻しに引きずられた気がする。それは、句読点の息継ぎのポイントがちょっと不自然なところに取る事から特に感じてしまう。口語であれば、そこで息継ぎはないだろう というところで息継ぎがはいるのだ。
 チェホフのテキストは新劇の俳優にとって偉大な金字塔であろうし、諸先輩が演じた三人姉妹を自分が演じるというプレッシャーもあるだろうが、自ら発するテキストを、はい、名台詞でございますと感じられてしまうような、いわゆる台詞廻し的な言い方と取られないように意識的にもっと現代口語の演劇スタイルに近づいても良かったのではないかと思う。
 俳優が稽古場で立ち上げるスタイルを坂口さんは最大限に尊重したのだと想像する。それでも、ポスト青年団、現代口語演劇の あとの 文学座のチェホフだけに、21世紀のチェホフ像を提示するくらいの大胆さがあっても良かったのではないかと思う。
 他の感想は、音楽の使い方がとても旨く、スピード感のある展開、転換も美しく、素敵だった。照明も奇麗だった。そして、もちろん、面白かった。
 次回はいつ「三人姉妹」を上演するのだろう。そのときは、もっと現代口語演劇のスタイルに近づいて欲しい。それは、三人姉妹のことを深く分かっている文学座だからこそできるのだ。
2012年2月16日 紀伊国屋ホール
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作演出/三谷幸喜

「二人の名演を堪能」
 ものみの塔?だっけ輸血を拒否する宗教の男の息子が事故でひん死の重傷、輸血を進める医師との90分間の会話劇である。親の承諾書がないと手術はできない。手術さえすれば子供の命は助かる。親は輸血をしないで手術をしてもらいたい…。
 何しろ二人が旨い。そんなことあるかよ!って他の俳優がやったら言われそうなシーンも、その旨さで乗り越えていってしまう。何しろ最後は、親の子への愛よりも、医師の義務感、倫理の方が克つというストーリーなのだから。子供は大切だけれども輸血はできない。あなたはそれでも親なのか?この構造というか論理はほとんど硬直して動かない。芝居が始まって、唯一れをひっくり返すとしたら、親が医師に勝手に治療をやってもらえないか?という論法を親が取り始めるんだろうなと思ったらその通りだった。もう2回くらいひっくり返るかな?と思ったけれども、、なかった。三谷さんの作品として傑作か?と言われれば答えはノーである。
 小劇場であってもおかしくないほどのシンプルな舞台、チケット代は8000円、僕はそれを金券屋で9500円で購入。うーーん。西村さんの滑舌は誰よりもいいのに、リアル感にぴったり寄り添う名演を見られた価値はあったなあ。西村さんのシャイロックとか、リチャード3世とか、イヤーゴとか見たいな。
2012年2月15日@PARCO劇場

「ナンタって、何だ こんなかあ〜」
 バンコク旅行しているときに、ナンタのカンパニーがバンコクに来ていて公演をしている。それもHISでクーポンを買えば1500円弱で見られるというので、見る事にした。東京に来ているときに何回も見ようと思ったのだが、なかなか見られなかったからだ。演劇をやってる日本人がタイ旅行中に韓国からやって来ている芝居をみるというのはなかなかヘンテコな組み合わせだ。この公演のためにバンコク中心のBIC Cという大型スーパーに1000人くらい入れる立派な劇場ができていて、ロングランを見込んで始めたのだろうが、僕の行ったときには客100人はいなかった。
 そんな空気の中でみた90分のパフォーマンスは王道でベタ。もちろん誰が見ても良く出来ている。感心したのは韓国の伝統的な踊りなども見事に取り込んでいたこと。5人の出演者が次々と繰り広げる技の数々も見事。でも、こちらのハードルはそれ以上に高い。ああ、東京で7500円出さなくてよかった。これなら、日本の小劇場、もちろん歌舞伎、バレエや能狂言、落語の方がよっぽど高度なパフォーミングアーツだと思ってしまう。ソウルで先年見た作品がどれも良かったので特にそう思ったのだろう。2012年も来日するらしいけれど、そんな何回も来日するほどの価値はありません。







2012年2月12日@NANTAシアター バンコク
ゴールデンドーム ニューハーフショー


「こんなに退屈したのは久しぶり」
 久しぶりにバンコクでニューハーフショーを見てみた。払った金も900円くらいだからあまり文句も言えないが、こんなに退屈したショーをみたのは久しぶりだ。舞台装置は豪華で美しい、衣装も素晴らしい、出演しているニューハーフには何人かハッとするほど美人もいる。しかし、踊れない。立って歩いたり、ニコニコ口パクして、時々くるりと廻るだけ。その繰り返し!美貌に驚くのは最初の15秒だけなんだよ!これ、基本。ダンスの稽古をしなさい!基礎鍛錬しなさい。こういうショーにつきものの笑いどころも一人だけ。その、ひとりだけの、化け物顔で笑いの人、一人でボケも突っ込みもできない。技も同じで、2回目に出て来たときはシラケてしまった。全然ダメ。バンコクで5年ほど前に3本ほどニューハーフショーを見たのだが、中には面白い部分もあった様な記憶があるのだけれど、だいたいはつまらない。ショーとしてきちんと構成されていない。客が楽めるように作られていない。せっかく自前の劇場を持ち、一日に3回もショーをやるのなら、もう少し構成をきちんとし、出演者は美貌を磨くだけでなく、パフォーマーとしての最低限の技術を身につけてもらいたい。

 20年ほど前にTBSのバラエティ番組の関係で大阪の「ベティのマヨネーズ」というニューハーフのショーパブの、10年ほど前には、福×和也さんに連れて行ってもらって新宿5丁目の「白い部屋」でショーを見せてもらったが、もう日本の方が全然上、言葉とか文化の差の違いじゃないよ。圧倒的な差がある。出ているパフォーマーさんの美貌はタイが圧倒的に上。素材がいいんだから!負けていいのか?男だろ!
 2012年2月11日@ゴールデンドーム劇場 バンコク
スピルバーグ作品
オールCG

「映画は消耗品と思いたくない僕にとって」
スピルバーグ監督作品。イフユー…を思わせる洒落たオープニングタイトルから案外楽しく見られました。ヒットしたそうですが、それほどまでは面白くないよな!とも思った。タンタンがバンバン銃をぶっ放すのだけれど、スピルバーグは、子供達がみるこの映画についてどう思ったんだろうね。まあ、DVDも新作貸出しのときでなくていいかも?100円セールになったら借りてみましょう。この映画は消耗品のような作品です。2回3回みたいものではないから、僕はそう映画は好きではない。セルで買わない方がいいですよ。 2012年2月10日


白鳥の湖

音楽:ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー
演出:ユーリー・グリゴローヴィチ
振付:マリウス・プティパ,レフ・イワノフ
アレクサンドル・ゴールスキー、ユーリー・グリゴローヴィチ
美術:シモン・ヴィルサラーゼ
音楽監督・共同制作:パーヴェル・ソローキン
照明:ミハイル・ソコロフ
指揮:パーヴェル・ソローキン
管弦楽:ボリショイ劇場管弦楽団
オデット/オディール:スヴェトラーナ・ルンキナ
ジークフリート王子:セミョーン・チュージン
王妃 (王子の母):エカテリーナ・バリキナ
悪魔ロットバルト:ウラディスラフ・ラントラートフ



「ソリストの花は大きく開いた」
 すでに10年近くプリンシパルを守っているルンキナは日本の新国立劇場にもたびたび来日しもはやおなじみ。アレクサンドロワでも見たいなあと思ったけれども、彼女のオデットも見た事なかった。ボリショイで白鳥を見るのは、何年ぶり?もしかしたら、1984年に初めて白鳥を舞台で見て以来かも。当時は、ソビエトの大韓航空撃墜事件の直後で、神奈川県民ホールは物々しい雰囲気だった。そのものすごいプレッシャーの中で一糸乱れぬ群舞の見事さに驚いたものだ。見事な様式美。
 前にも書いたけれども今回の来日にはそのような緊張感はない。時おり乱れるアンサンブルはもはやボリショイが世界のトップオブトップではないことを証明した。
 アメリカは分からないけれど、パリオペラ座バレエ、ロイヤルバレエ、東京バレエ団が世界の3大バレエ団ではないか?その次に来るのがボリショイという感じだ。個人的には美貌のダンサーぞろいのミラノスカラ座バレエ団やローザンヌのベジャールバレエ団も好きだけれども。
 ソリストは、華がある人が多く魅力的だった。でも、花形ダンサーは世界中のバレエ団に客演するものだから。彼女彼らよりも僕はやはり群舞でバレエ団を判断してしまう。今回はオケも来日していた。東京フィルの演奏は素晴らしいと思ったけれど、こちらの安定感はスゴかった。

2012年2月9日(マチネ)@東京文化会館




スパルタカス

音楽:アラム・ハチャトゥリアン
振付:ユーリー・グリゴローヴィチ
美術:シモン・ヴィルサラーゼ
音楽監督・共同制作:ゲンナージー・ロジェストヴェンスキー
指揮:パーヴェル・ソローキン
管弦楽:ボリショイ劇場管弦楽団
スパルタクス(剣奴、反乱の指導者):パヴェル・ドミトリチェンコ
クラッスス (ローマ軍の司令官):ユーリー・バラーノフ
フリーギア(スパルタクスの妻):アンナ・ニクーリナ
エギナ(娼婦、クラッススの愛人):マリーヤ・アレクサンドロワ



「ボリショイバレエのいま」
 僕が最初にボリショイバレエを見たのは1983年の9月の来日で神奈川県民ホールだった。生まれて初めての「白鳥の湖」。バレエといえば、ボリショイ!というイメージが何でか分からないけれどあって、大変楽しみにしていたのを覚えている、ところが、当時、大韓航空機撃墜事件があり反ソビエトの空気が物凄いなか、厳戒態勢で行われた公演だった。安いチケットだったけれど、僕はこっそり1階の席に潜り込んでみたはず(今宵は1階前方前から2列目。素晴らしい席だった)。そこには、幻想的な世界があって、チュチュを着ためちゃくちゃ美しい(=哀しい宿命を背負ったような)ロシア美人が一糸乱れぬアンサンブルで踊っていた。機械の様ではないけれども、自らを機械にしようとしていた感じがした。
 当時のソビエトの来日公演には、指揮者や演出、ソリストに、ソビエト政府から与えられた勲章などの呼称がついていた。全ソビエト芸術何とか何とかみたいな。
 当時の僕も、バレエダンサー達が抑圧されている感じがした。自由はない。しかし、そこには何か芯が通っていたのも事実。きっとグリゴローヴィッチ監督の思いのままのバレエを舞台にあげていたのだろう。そこに、ダンサー自らの自主性はあまり求められていなかったのかもしれない。しかし、それは美しかった。
 その後もボリショイは見ている。10年くらい前にも見た。
 で、今回のボリショイを見て、ソビエトが崩壊して20年。本当に変わったなあと思ってしまったのだ。ソビエト時代のボリショイのあのコールドダンスの一糸乱れぬ動きはもうない。例えば、手を上にあげるのも止めも、タイミングが会わないし、フォームも若干違う。いや、振りを間違える人もいる。カーテンコールではおしゃべり。公演中、ダンサー達は自由を満喫し非常に楽しんで踊っているのが分かった。それはいいとして、緊張感は確実に83年のボリショイの方が上だ。
 「スパルタカス」は30年前の来日でもきっと上演されたはず。ボリショイの十八番だ。ソリストは素晴らしい。特にエギナを踊ったアレクサンドロワは、オーラもカリスマ性もある魅力的なダンサーだ。ソリストの個性は素晴らしい。しかし、コールドバレエは昔の方がいいなあとも思ってしまう。戦いの場面に悲壮感がないのだ。
 オーケストラはバレエの伴奏という意味合いでリズムをクリアにしたもので、バレエ公演の時のピットに入る時はこんな感じなんだろうなと。
 いまやコールドバレエは、パリオペラ座や、ロイヤルバレエ、そして、東京バレエ団の方が上だなあ。振付けは30年以上前のもの。ボリショイバレエはもう世界のトップじゃないなと感じた。2012年2月1日@東京文化会館
指揮|ラドミル・エリシュカ

スメタナ / 交響詩「ワレンシュタインの陣営」作品14
ヤナーチェク / シンフォニエッタ
ドヴォルザーク / 交響曲 第6番 ニ長調 作品60

「ラドミル・エリシュカは老成しているが青年だった」
 現在80歳のほぼ無名だったラドミル・エリシュカが日本で注目されたのはこの5年ほどである。私はもちろん初めて聞く人だし、実は人身事故で電車が止まり、2局目の途中からしか聞けなかったのだが、彼がこれほどまで話題になっているのが良くわかった。素晴らしい。N響からこのような無駄な装飾がなく深みのある、でも美しく人生を謳歌している若者の持つポジティブな若く溌剌とした音と造形美。見事なアンサンブルが引き出されたのは脅威だ。あのブロムシュテットをも上回ると言ってもいいかもしれない。
 まだ足腰もしっかりしているので、あと何回か来日してもらえるのだろうか?チェコの音楽もいいが、古典派の音楽もこの指揮者からきちんと聞いてみたい。この指揮者にとってみてもチェコフィルなどの例外を除いて理想的な機能をもった最高峰のオーケストラを振るのは非常に嬉しいものだろうと思う。今回の来日でラドミル・エリシュカは決定的な評価を得ただろう。あとは神が彼にどれだけの時間を与えるかだ。祈ろう。もう一度、いやもう二度三度聞きたいのですと。2012年1月14日@NHKホール


指揮|レナード・スラットキン
ロッシーニ / 歌劇「どろぼうかささぎ」序曲
ルトスワフスキ / チェロ協奏曲(1970)
ショスタコーヴィチ / 交響曲 第10番 ホ短調 作品93
チェロ|ジャン・ギアン・ケラス

「コンサートならではの宝物」
 スラトキンとN響の幸せな組み合わせが帰って来た。1年ほど前にスラトキン来演の発表があったときに心が躍ったのはなぜだろう。10年以上前に来演したときの記憶はほとんど残っていない。しかし、今宵の演奏をきいて自分の期待は間違っていなかったと。ロッシーニの「どろぼうかささぎ」は最近富みに力を増しているN響の美しい弦のセクションであるが、美しさと溌剌な、それも非常に知的でね、コンサートの1曲目。短めの曲が用意されるのは、ディナーのアミューズのようなもの。そして、オーケストラの真の意味でのチューニング的な意味合いがあるはずなのだが、もう最高の料理が出て来た感じ。心の中に美味しいシャンパンが流れ込んで来たみたいだった。
 さて2曲目は1970年に作曲された現代?音楽。もちろん初めて聞く。ルトスワフスキというポーランドの作曲家のチェロ協奏曲。これが素晴らしかった。最初は序奏で始まるのだが、チェロの淡白な音から豊かな音が広がる。曲はロストローポーヴィッチが作曲家に依頼して生みだされたものらしいけれども、その淡白なチェロの音の素晴らしさ。共産主義体制下で生みだされたこの曲は、まるで芸術家の心の叫びとそれが波紋を呼び共鳴を呼んでいくという感じなんだけど、まあ、そういうことは別として純粋な音楽として本当に美しい。一瞬も気持ちを緩められない極度に集中して音楽を聞いていること。自然にそうなる。CDに決して収まりきれない音楽の伽藍がそこにあった。ジャンギランケラスという40代のチェロ奏者は非常にフラットな純粋に音楽に尽くすタイプだと思った。好きな演奏者のタイプだ。
 例えば、ポリーニのシュトックハウゼンの演奏をきくと、面白くてワクワクするが、別に録音で聞きたいとは思わない。そして、この手の音楽は本当に超一流でないと聞けたものではないものでもある。瞬時の音楽的な弛みは許されない。崩壊につながるからだ。いやあ、良かった。
 そして、最後はショスタコーヴィッチの交響曲10番。この作曲家とは距離をおいていたカラヤンも録音した曲だ。が、僕もどんな曲だったのか全く残っていなかった曲。まあ、このN響とスラトキンのような黄金コンビでないと聞きたいと思えない。が、こちらも曲が始まるとホント夢心地。
 このところのN響の定期は僕にとって本当に楽しみなものばかりで、言ってみればNHK交響楽団の定期演奏会を聞く為だけに生きる価値があると思うくらいだ。
2012年1月19日@サントリーホール


NTT東日本 N響コンサート
ブラームス ハイドンの主題による変奏曲作品56a
モーツァルト フルート協奏曲第1番ト長調K.313
ベートーヴェン 交響曲第7番イ長調作品92
フルート:高木 綾子

「ドイツものも抜群だったスラトキン」
 Bプログラムの演奏が余りにも素晴らしかった。Cプロの演奏曲目をみて、何かないなあと思ったのがドイツものの曲目だ。そうしたら、特別演奏会もあるらしいのでそちらにも出かけてみた。この日はアンコールにバッハのG線上のアリアまでやったから、本当にドイツ/オーストリアもので固められた演奏会だった。
 最初のブラームスで変に重たくならないけれども、重厚な木目の味わいで聞かせてくれたアンサンブルは、モーツアルトで軽やかになる。申し訳ないが高木という美人フルーティストの出てくる幕はほとんどなかった。N響のアンサンブルが素晴らしすぎた。軽やかでユーモアに溢れ、そして良く唄った。
 ベートーベンの7番は本当によく演奏する。2009年の9月の定期ではホグウッド、2010年9月の定期ではマリナーと。どちらも良かった。今宵も負けじと良かった。違いはN響のアンサンブルの音の密度がさらに深くなったこと。スゴいです。
 スラトキンとドイツものっていうイメージはなかったけれども、大満足で本当に来てよかったと思う。スラトキンはいったいどこにこだわったんだろう。きっとフレージングやお互いにもっと聞き合うってことじゃないのかな?聞き合わないと作れない音を作ったのではないかしら?と吉田秀和的な終わり方をしてみる。
 そう、僕はごきげんなのだ。
2012年1月23日(月)@東京オペラシティコンサートホール タケミツメモリアル





ペルト / フラトレス(1977/1991改訂)
バーバー / ヴァイオリン協奏曲 作品14
チャイコフスキー / 交響曲 第6番 ロ短調 作品74「悲愴」
ヴァイオリン|ナージャ・サレルノ・ソネンバーグ

「世界に誇れる名演」
 一度僕の家に来てもらえば分かるが、1980年代の半ばから世界中から来日する一流オーケストラのほぼ全てを聞いて来た。僕が音楽を聴き始めた頃は、まだ巨匠が山ほど生きていた。僕が聞いただけでも、カラヤン、オーマンディ、バーンスタイン、ヨッフム、クーベリック、ジュリーニ、チェリビタッケ、テンシュテット、ショルティ…。アバドやムーティ、クライバーでさえ中堅と言われた時代だった。小澤はまだ若手だったかもしれない。母が上京した頃にN響のハープ奏者、山畑さんに世話になったことがあったらしく、子供の頃からNHK交響楽団の名前をきいていた。高校になり、実際に自分でチケットを買ってコンサートに行き始める。最初にいったのは、小澤征爾/ボストン交響楽団の演奏会。ブラームス。普門館という音響の悪いホールでの演奏だったけれども豊かな弦の合奏に心を震わせたものだ。
 一方高校の友達に誘われて高校二年の時に出かけたのがN響のプロムナードコンサート。小松一彦と小林研一郎の指揮で1回づつ、宮沢明子がショパンの2番コンチェルトをやった事だけを覚えている。がっかりしたのだ。弦は第一バイオリンはキーキーいうし、金管はガンガンひっくり返る。日本で一番のオーケストラかもしれないが、酷いなあと思ったものだ。しばらくして、N響の定期には時おり通いだす。理由は簡単。有名指揮者やソリストの生演奏を聴きたかった。サバリッシュ、シュタイン、ノイマン、コシュラー、スイットナー。プロムナードコンサートで聞くよりは良かったけれど、同時期に聞いていた来日オケの音色とは比べ物に成らなかった。
 それがこの10年で変わった。いや、この数年で格段に良くなった。なぜだかは分からない。千葉馨さんなどの名演奏家はほとんど退団してしまったし、客演する指揮者が急に変わったわけでもない。ホールは同じNHKホールとサントリーホールだ。
 サントリーホールが出来てN響を聞いたとき、サウンドの仕上がりがNHKホールよりも格段に良かったので、嬉しくなったものだが、それでも欧米の超一流どころとは大きな溝があったように思う。

 今宵の演奏を聴いて、今日までのことを思い出していた。なぜなら、今宵の演奏は世界に誇れる名演だと確信するからだ。スラトキンはこのあとソウルフィルでタクトを振るらしいが、どうなんだろう?この日本のオケの素晴らしさを再認識するのではないかと思う。
 現代音楽も組まれたプログラムで、観客の大半は、それは僕も含めて後半のチャイコフスキーを聞きに来たのだと思う。それが一曲目のベルトの「フラトレス」でやられてしまった。打楽器と弦楽器のやり取りで展開する現代のレクイエムだ。そんな曲ではないかもしれないが、この曲には鎮魂する力がある。それを見事な弦楽合奏で、それは昔、初めて東京カルテットを聴いた時の衝撃にも似ている見事なもので、10分間の演奏が終わってしまったとき、もっと聞きたいと思った。生まれて初めてこの演奏を録音したCDを休憩のときに買おうかなと思ったくらい。
 2曲目のバーバーの協奏曲も聞き慣れたものではない。それが何と言う躍動感。ソリストのナージャはその半生の出来事も加わってカリスマ性のある演奏家らしい。まるでロックを演奏するようにノリノリで、ソウルで演奏するのが分かる。それがオケがノリノリで、それも高度な技術に裏打ちされた濃密な音で迫ってくる。ナージャを焚き付ける演奏をするものだから、彼女の顔がどんどん嬉しそうになってくるのが分かる。それは聴衆にも伝わって、なんて素敵な曲を聴いているんだと思わせてくれる。僕はポリーニでシュトックハウゼンを聞いたときに思ったのだけれども、現代の音楽は微妙な響きがとても大切で、それらまでコンサートホールで体験できるような音楽体験をいよいよ録音できない代物だと思っている。一流の演奏で現代の音楽を聴くと19世紀の音楽が本当に色あせてしまうほどなのだ。この2曲の名演でそれを確信した。
 もうお腹いっぱいだ。このあと、あの手あかの付く程きいた「悲愴」を聞いてこの感動を上回るものはないだろうなと思っていた。しかし、スゴい演奏だった。テンポはやや遅めで、例えば1楽章なども、あのネスカフェのCMで使われる「悲劇の爆発」のところでも、スラトキンは決して音量に寄りかかって演奏しない。それは濃密な魂の心の叫びにこだわるのである。どうして、心の叫びなどという抽象的な言葉を使うかというと、音が胸に突き刺さるからだ。
 N響は一糸乱れない。お互いがよく聞き合っているのだろう。こんな素敵なアンサンブルで芝居ができたら素敵だろうなあと思うとともに、僕は期待を大きく裏切ったカラヤン/ベルリンフィルをこのホールできいた80年代のことを思い出していた。
 あの演奏を遥かに凌ぐものだなあと僕は驚いていた。去年9月のチャイコフスキーの5番をブロムシュテットで聞いた時もスゴいと思ったし、5番ならミュンヘンフィル/チェリビだっけの糞名演も聞いている。80年代にオーマンディ/フィラディルフィア管弦楽団でチャイコフスキーの4番を聞いた時もピチカートに胸を射抜かれたのも覚えている。悲愴もいい演奏は聴いている。そして、今宵の悲愴交響曲の演奏は
忘れられないだろう。いや、コンサート全体を通して驚愕すべきもので、これは世界に誇れる名演奏会だし、NHK交響楽団の演奏会としても特筆すべきものだと思う。
 終楽章の弦楽合奏、あの弦楽セレナーデのような響き。分厚く深いサウンドだった。そして、それは今宵の最初の曲目「フラトレス」に回帰するような印象も受けてコンサートの最後の曲の最後の始まりも今宵全体を締めくくるのに見事だった。
 今宵残念だったのは演奏が終わったあとに訪れた静寂を客席後方からわめき声でぶっ壊す痴れ者がいたこと。ウォーーーーーと数分も叫び続けた。ぶん殴りたかった。

2012年1月28日@NHKホール






演出 蜷川幸雄
作  唐十郎
出演 宮沢りえ、藤原竜也 ほか



「時代はまだ蜷川幸雄だ」
 蜷川幸雄は1990年頃に商業演劇でこの芝居を取り上げているらしい。シアターコクーン改装後のこけら落としに相応しい演目で、昭和の貧民街の大掛かりなセット、舞台前面には大きな池がある。飛び散る水水水。しつこいくらいに!
 物語はあるのだが詩的であまり関係ない。それよりも情念、哀しみ、喜び、憎しみ、怯え、悦楽…、さまざまな感情が舞台を交差し駆け巡る。蜷川カンパニーの実力派もほとんど台詞のない役を演じていたり、小劇場の実力派と呼ばれる役者はその他大勢といった役回り。この演劇のできている構造もさまざまな感情が出てくるように仕掛けられている。そこに、宮沢りえと藤原竜也が圧倒的な華を咲かせる。オーラを発散させる。そこに絡むのはヒトクセどころではない役者ばかり。六平直政、金守珍、大門伍朗、沢竜二、石井宣一。さすがの大石継太、ベテランの原康義、妹尾正文でさえここでは居場所を確保するのが大変かもと思った。
 莫大な金を使っての美術に衣装に役者陣。それら予算を無駄なく納得できるように仕立てるのは相当難しい。それをやってのけられる蜷川幸雄。70代半ばで本当に大したものである。何しろチケット代の1万円がちっとも惜しくないのだもの。  bunkamura シアターコクーン 2012年1月26日
3.14ch三回目公演 『 宇宙船 』
2012.1.18(水)~22(日)
作・演出/ムランティン・タランティーノ
出演/斉藤小徹 妹尾果奈 内田龍 前彩子 佐々木キミテル(PLUS TIC PLASTICS)上松コナン(散歩道楽) 野田孝之輔(地下空港) 熊崎久実(東京蝉ヌード) 鵜沼ユカ 富岡英里子 祖父江唯(虎のこ) Velma(キアロスクーロ撮影事務所) 富士たくや 山森信太郎(髭亀鶴) ヴィン・ボー(猫☆魂) こじまゆき(メガロザ) 田所ちさ(海ガメのゴサン) 村木雄 篠田藍郎 (東京蝉ヌード)

舞台美術:福田暢秀(F.A.T STUD IO)



「度肝を抜かれた舞台美術、キューブリックへのオマージュを感じさせる作品」
 実は初めての東演パラータでの観劇。富士君と内田君が出ているので観にいった。小劇場なのに幕がしまったままだった。そして、オープニングの簡単な映像のあとに開いた。そして、誰もがその美術に驚いただろう。スゴい!この美術をこの小空間に作ることは物凄く金がかかるし、ハイテンションでなければできない。そろばん勘定ではできないのがすぐに分かる。
 話もハイテンションだ。西暦3013年後(1000年後!)、全地球は統一国家とあなっていた。そして、地球から行くと350年掛かる星からコンタクトを取ろうとする電波が!きた!!!!ーーっ。じゃ、2000人まで収容できる、どでかい宇宙船でひと世代じゃつかないけど、そん中で人生を過ごしてもらいながらで、行ってみようという設定。もうひとつ重要なのが、人間の寿命はきっかし150年で死ぬということ。
 哀しい中間世代は、地球も行き着く星のことも知らずに、世代をつなぐだけで生まれ生き死んでいくわけだ。また、本来の150年を越えて生きることのできた男もいたりして。何とも面白い設定だ。ここだけできちんと物語れば良かったのにと思ったけれども、ムラティンタランティーノはそうはしない。1時間50分の上演時間では支配される階級の革命、短絡的な行動で住民はほとんど死に絶えたり…と、さまざまな事が起きるし、繰り広げられる。
 1000年後の未来の音楽、美術、洋服って?人間関係って?食べ物って?テクノロジーは?音楽はクラシックなの?地球は統一国家になって話すのは日本語?いろんな突っ込みどころ満載。テクノロジーでいえば、未来なのに結構今風。音楽はアイパットで選んだり…とか。まあね、突っ込みどころは満載。
 だけれど、このハイテンションな話を舞台にかけようとしたこと自体。スゴすぎるぞ。ムランティン。こちらの集中力が続かなかったのか、芝居がつまらなかったのかは別として退屈はした。最初の15分で退屈してしまう。でも、登ろうとした頂きが高いことは伝わる。嫌いじゃない。
 しかし、そのための準備が少なくないか?一番気になったのは一部の役者のテンションが低かったこと。いやあ、相当低い。それは、この物語をやるテンションとして低いっ。ってことで、
 設定はキューブリックの「2001年宇宙の旅」と非常に似ていて、着ている服とかも似ていて、世代が変わると「時計仕掛けのオレンジ」みたいになって、ベートーベンやワーグナー、マーラーの音楽を使うところもそうだけど。なんかね、キューブリックへのオマージュかなって感じたよ。もう1回同じ事言う。せっかくいろんなことのテンションが高いのに、役者のテンションが、ちょっとね。そう思ったのでありました。 2011年1月21日ソワレ@東演パラータ
 
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プロフィール
HN:
佐藤治彦 Haruhiko SATO
性別:
男性
職業:
演劇ユニット経済とH 主宰
趣味:
海外旅行
自己紹介:
演劇、音楽、ダンス、バレエ、オペラ、ミュージカル、パフォーマンス、美術。全てのパフォーミングアーツとアートを心から愛する佐藤治彦のぎりぎりコメントをお届けします。Haruhiko SATO 日本ペンクラブ会員
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