佐藤治彦のパフォーミングアーツ批評 忍者ブログ
自ら演劇の台本を書き、さまざまな種類のパフォーミングアーツを自腹で行き続ける佐藤治彦が気になった作品について取り上げるコメンタリーノート、エッセイ。テレビ番組や映画も取り上げます。タイトルに批評とありますが、本人は演劇や音楽の評論家ではありません。個人の感想や思ったこと、エッセイと思って読んで頂ければ幸いです。
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Conductor: Fabio Luisi
Violetta Valéry: Natalie Dessay → 病気のため Hei-kyung Hong に交代
Alfredo Germont: Matthew Polenzani
Giorgio Germont: Dmitri Hvorostovsky
Production: Willy Decker


「オペラの筋以上に病気のMET椿姫は過去の栄光を失った」
 2年前2010年4月にmetで見た「椿姫」がゲオルギューの歌と演技と姿の三位一体の完璧さがあって俺の心は打ち抜かれ、ああやっと椿姫に出会った~!と感激したものだ(このブログ参照)。古いといわれるかもしれないが、写実的で豪華な舞台美術もオペラをみる楽しみを感じさせてくれた。今回は指揮はファビオルイジだし、ナタリーデッセイのヴィオレッタも聞いてみたいなと思い出かけた。
 しかし、すべては変わっていたのだ。まずはプロダクションがウォルフガンググスマンのドイツ表現主義的な舞台美術に変わっていた。真っ白の半円の舞台には長いベンチがまあるく置かれていて、頭上が大きく開いている。左手に扉、上手に大きな時計があるだけ。
 開場すると、男がその大きな時計の横に座っていて過去を回想している。


 こんな感じで演出もこのオペラを何回も見ている人にはなるほどと思わせるところもある。たとえば、ヴィオレッタとアルフレードはであってすぐに激しい愛撫をはじめ、アルフレードはヴィオレッタのまたぐらに手を突っ込みながら愛の歌を歌いまくる。そうだった。ヴィオレッタは娼婦だったのだと思い出させる分かりやすい演出がちりばめられる。また、アルフレードは一貫して世間知らずのばかな若者として描かれ、子供ような行動を山ほどとる。感情はむき出しで、ジェルモンピンタされたり、どつかれたりする。終幕の死期の場面で、窓の外に聞こえるカーニバルの歓声は、この中に入ってきて、ヴィオレッタは男たちに囲まれている過去の自分と同じような(同じような赤い衣装)を着ている女と目を合わせるといった具合。
 何しろヴィオレッタの衣装がアルマーニの衣装のような絹のような真っ赤な短いドレスだけで、下着に見えなくもない。なるほど、なるほど思いながら、いまさらそんなことする必要あるのか?とも思ってくる。アルフレードやヴィオレッタの愛の物語でいいじゃないか?と思ってしまうのだ。特にあの素晴らしい前のプロダクションセットを放棄して、こんなドイツの予算のない劇場がやりそうなプロダクションに変える必要が分からない。デッセーが降板した理由が実はこのプロダクションにあるといわれたら、そうだろうそりゃと言いたくなるくらいだ。
 で、肝心の演奏もそこそこだったのだ。この日の「椿姫」はシーズン初日だったのだけれども、1幕では乾杯の歌のところでもオケの縦が全く合わない。それが何分も続く。こんなばらばらのMETのオケを聞くのはもう25年以上もこの劇場に通っているが初めてのひどさ。ホンの声も細すぎて、前回はゲオルギューの素晴らしさの影に損をした、ホロストスキーのジェルモンが一番喝采を得ていた。ホンが良くなったのは後半、それも死期が近づいてからのシーンで、死にそうな役を演じているのだから、ちょうどいいころ加減である。
 僕は冒頭から期待が高かっただけに、がっかりで相当寝た。高額のチケットを購入しおしゃれもして出かけたのにがっかりだ。メトの「椿姫」は新しいプロダクションができるまでもう行かないと思う。
 2年前に見た過去の椿姫の素晴らしさを思い出すたびに、METは過去の栄光の椿姫を捨て去ってしまったのか、ヴィオレッタ以上に病気なのか?METと思いたくなる。

2012年4月6日@ニューヨーク メトロポリタンオペラ劇場
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「これは聞かないと損をする!」 最初にニューヨークに来てから、25年近く経つ。住んでいたこともあるのに、ジャズクラブで行くとなったら、ブルーノート、ビレッジバンガード。そして、リンカーンセンターのそばにイリディウムがあったころに行っただけ。バードランドの名前は高校のときには知っていたのに初めて来た。滞在しているところから3ブロックぐらいの近さにあることと、金曜日午後5時からのバードランドビッグバンドの公演はニューヨークで一番お買い得な音楽だとの宣伝に惹かれてしまった。ぽっかり空いた時間にやっていたのだ。
 行ってみると、満員。テーブル席は25ドルのミュージックチャージに、10ドルのミニマムチャージ。バーカウンターは20ドルのMチャージに、何か頼んでもらえれば…という具合。
 公演は途中30分弱の休憩が入るが2時間たっぷり。16人くらいの編成の音楽を堪能させてもらった。こういうヒップな感覚を残しフリージャズの香りのするビッグバンドの公演はほんとにいいものだ。休憩中は客の中心の中年男がこの日のリーダー に気軽に声をかけている。そういえば演奏中の間の会話も楽しく、リクエストにも応じているみたいで会場中がノリノリだ。いわゆる観光客向けにやる中途半端な公演でないのがいい。オーラスにバードランドのテーマを聞いたとき、ああ、これ小林克也さんのテーマ音楽みたいなものだと思った。子供のころから聞いていたあのメロディを堪能。秋からはワールドツアーもするというバンドだが、確かに実力者ぞろい。
 長年ニューヨークに来ているのにまだまだ行かなくちゃいけない場所は多いなあと思った次第。金曜日の夕方5時。ブロードウェイの劇場街のすぐそばにあり、ライブが終わってから十分にお目当てのショーも見られる。これからのニューヨーク訪問の定番になること確定だ!これは行かないと損をしますよ!

2011年4月6日@ニューヨークジャズクラブ バードランドにて
エイドリアンノーブル演出
ノセダ指揮 トーマスハンプトン出演


「なぜ眠ってしまうのだろう」
ノセダ指揮のメトロポリタンオペラ管弦楽団は大変いい演奏をして、ハンプトンの歌唱もよく、美術も演出も悪くないのに、爆睡しつつ見てしまった。なぜだろう。肉体が疲れていたのか?それだけではない、このヴェルディのオペラ、他の作品と比べると完成度があまり高くないと思ってしまう。前も寝てしまった。次はきちんと見たい。
2012年4月5日@メトロポリタンオペラハウス
「ラインの黄金」
CAST Conductor: Fabio Luisi
Freia: Wendy Bryn Harmer
Fricka: Stephanie Blythe
Erda: Patricia Bardon
Loge: Stefan Margita
Mime: Gerhard Siegel
Wotan: Bryn Terfel
Alberich: Eric Owens
Fasolt: Franz-Josef Selig
Fafner: Hans-Peter König

「ワルキューレ」
Conductor: Fabio Luisi
Brünnhilde: Deborah Voigt
Sieglinde: Eva-Maria Westbroek
Fricka: Stephanie Blythe
Siegmund: Stuart Skelton
Wotan: Bryn Terfel
Hunding: Hans-Peter König


Production: Robert Lepage
Associate Director: Neilson Vignola
Set Designer: Carl Fillion
Costume Designer: François St-Aubin
Lighting Designer: Etienne Boucher
Video Image Artist: Boris Firquet

「観客が求めているのはルパージュではなくワーグナーではないのか?」
 ロバートルパージュは光と影の魔術師といったフレーズで語られるいま注目の演出家である。シンプルな舞台で、今回は三角形の縦横無尽に稼働するオブジェに照明やビデオ撮影されたものを投影することによって瞬時にして場所を移していく。アイデアは面白い。しかし、ワーグナーのこの巨大なオペラには、アイデアがちょっと煩かった。特にこのようなモダンな演出をするのなら、美術やセットだけでなく、衣装なども含めて徹底して欲しかった。衣装も演技も神話の世界そのままで、美術だけがモダンなのである。
 時には吊り下げられながら、時には身体の平衡を気にしながら、坂道を移動しつつ唄い演技をしなくてはいけない歌手たちが少々可哀想だった。歌と演技以外に歌手にかかる肉体への負荷が大きすぎる。
 もちろん現代最高のワーグナー歌手たちの歌唱は素晴らしかった。
 気になったのはファビオルイジの指揮するオーケストラだ。もちろんニューヨークのインターナショナルなオケがやっているわけだけれども、ちょっと音色が明るすぎた。ワーグナーだから重く暗い音が聞こえて来ないと認めないのか?と言われると全くそうではないのだが、きっと私の思った事は、歌手たちの演技だけが神話の世界で、美術もオケも現代そのものだったことによる引き裂かれ感に戸惑ったのだと思う。それにしても、古いと言われるだろうが、メトロポリタンオペラが1980年代の終わりから20年あまり使ってきたオットーシェンクの演出が懐かしい。あのギュンタージームセンの美術がもう一度見たい。歌手たちの演技は、そこに留まっていて、そこで唄いたかったとどこかで思っているように思えた。

 僕のそういう思いもあるからかもしれないが、どうしてもルパージュの演出は自己主張が強すぎるというか、自分のしたいことをするために他のものを相当犠牲にしすぎているように思えてならない。そして、ワーグナーのオペラにとってその感性が邪魔に思える。オペラの演出は、あくまでも音楽そのものへの奉仕でなければならない。これが僕の考え方だ。
 ルパージュは、観客が先ず第一義にワーグナーを求めてきていることを忘れてはいないか?ルパージュは自分自身を魅せる事を第一に作っているのであれば、それは傲慢というものである。

「ラインの黄金」2012年4月4日@ニューヨーク メトロポリタンオペラ劇場
「ワルキューレ」2012年4月13日@ニューヨーク メトロポリタンオペラ劇場
演出/MICHAEL GRANDAGE 振付/ROB ASHFORD
出演 ELENA ROGER/RICKY MARTIN/MICHAEL CERVERIS




「歌も踊りもソコソコなリッキーマーティンショー」
 アンドリューロイドウエッバーの代表作であり、現代のプッチーニとも言われる彼の作品だけあって、歌唱力を高く求められる作品である。メインキャストは歌手として先ず超一流でないと成立しない。
 ところが、僕の見た日のエヴァ(エビータ)役が、Cデチコというセカンドキャストだったこともあるかもしれないけれど、そのエビータの歌唱力がいまひとつだったのだ。いや歌唱力というよりも声自身の問題だ。低音に色気のない上に、高音もコゥルトローラ系の声でキンキンしているだけで弱い。音域に強い弱いがありすぎて歌に迫力がない。それならペロンの愛人役のレイチェルポッターの方が数段いい声。全音域で見事な音質と説得力のある歌唱力だった。コレじゃダメだろ。
 そして、ペロンはもともと大きな役でもないので、この日のショーは狂言回し役のはずのリッキーマーティンの独り舞台となる。さすがにスターなので、オーラもあるし、歌はピカイチ。ただ、黙って様子を伺っているシーンとかではやや邪魔になる。
 このミュージカル、不協和音など使いまくりの作品。さらに派手なダンスシーンはないので結構地味である。36人もの大カンパニーだし、美術も豪華なんだけれども。
 通常は、この2番手キャストのデチコがレギュラーでエビータ役水曜ソワレと土曜マチネにやるはずだったのだけれど、もし、ご覧になるのであればチケットを買う時に注意されたい。2012年4月4日 @ブロードウェイ マーキス劇場
トムクルーズ
監督/ブラッドバード
脚本/クリストファー・マッカリー

「ミッション完了!生き残ったトムクルーズ」
 トムクルーズがやばくなってから何年たつのだろう。怪しげな宗教にはまっている、セックス中毒といったゴシップ記事は映画「ワルキューレ」のころに極限に達していた。あの笑顔の裏には…と多くの人が思っていただろう。欧米でも露出が少なくなって最後の大市場の日本に頻繁に来日してた。そして笑顔を振りまいていた。
 もとい、そんなことはどうでもいい。問題はトムクルーズの出る映画がどんどんひどくなったことだ。全編トムクルーズのアップ映像ばかり見させられた。脚本はトムクルーズ以外の出演者のことはほとんど書かない。なんじゃこれ!という映画ばかりだったのだ。
 唯一面白かったのが「ミッションインポシブル3」だろう。そこにはフイリップシーモアホフマンという稀代の俳優がいた。トムとガチンコで対抗してた。相変わらず脚本はトム中心だったがホフマンは悪条件の中でも、ものすごい存在感を出していた。世界各地のロケーション映像も楽しかった。

 トムクルーズはいまだにトップスターの座が危ういリストにあるといえる。世界遺産の危機遺産に登録されちまった感のある存在なのである。画面を見ると加齢による影響も強くなり、いよいよやばい。
 ブラッドピットが60歳までに引退しますと余裕かましてるのと違いすぎる。ブラットピットにオスカーをやらないままで引退させていいのか?嫉妬まみれのハリウッドも思い始めたのか、大した演技もしていない「マネーボール」でブラッドピットはオスカーの候補になった。
 そして、トムは「マネーボール」のような作品にも出ていない。オスカーの候補になるような作品に全然でてない。いいのか?トム、このままでいいのか?このままいくと過去の栄光にも傷がついてしまうぞ。日本から日本語でだけど、アドバイスしておくよ(爆)
 この作品のことを話そう。感想はトムクルーズは何とか生き残った。でも傷らだけだ。さらっと一度見るのなら十分楽しい作品だけど、それだけだ。
 今回の作品では、ドバイ、ブタペスト、ボンベイなど世界各地の映像と激しいアクションで楽しませてくれる。残念なのは、トムの周りにいる俳優たちが上手いけれども俳優として弱いことだ。トムを邪魔するような存在でなければならない。悪役も弱い。プロデューサーでもあるトムクルーズを2時間どう見せるかなんか考えて映画を作らないで欲しい。面白い映画を作ってそこにトムを放り込むだけでいいのに。
 それでも、迫力あるアクションシーンの連続は認める。ただ、CGの使い方が下手。生アクションがウソっぽく見えてしまう。

 映画史に残る名作ではないが、映画館でみる価値のある作品には何とか仕上がっている。
 トムクルーズはそろそろ自らプロデュースするものではなく、ひとつの歯車として映画に出た方がいい。自分のことは自分が良くわかっている。トムクルーズはそう思ってプロデュースしているのかもしれないが、危機遺産であることを自覚しなくちゃ。このままではトムクルーズは過去の人になる。ああいう俳優もいたよねという存在に成り下がってしまうのではないかと他人事ながら心配なのだ。

2012年4月4日@機内映画
串田和美 演出/美術

聖天町法界坊 中村 勘三郎
道具屋甚三郎 中村 橋之助
永楽屋手代要助実は吉田松若 中村 勘九郎
花園息女野分姫 中村 七之助
仲居おかん 中村 歌女之丞
山崎屋勘十郎 笹野 高 史
番頭正八 片岡 亀 蔵
永楽屋権左衛門 坂東 彌十郎
永楽屋お組 中村 扇 雀

「圧倒的な劇空間。自らを越えていく勘三郎」
 2000年11月に平成中村座が旗揚げし「法界坊」を上演した時に観劇した。今回、平成中村座を見せてもらう機会があって、演目を見たら「法界坊」でああ、12年前弱に見た時、面白かったなあと思って観に行った。
 冒頭で法界坊がばあさん連中を連れて出歩くところまでは、ああ、こんな話だった、こんな話だったと思ってみていたのだが、話はおおよそ覚えていたけれども印象は相当変わる。会話は現代的で、七之助にわざと昔の歌舞伎のテンポで台詞をしゃべらせる以外はまるで野田秀樹の芝居をみているような現代口語のリズムで会話は進む。ギャグや人間関係のドライさの表現はまるで松尾スズキの芝居に通じるものがある。舞台転換は蜷川や超一流のアングラ演劇のケレン味たっぷりだ。遊びはあるけれども、それで劇空間が緩むのではなくクライマックスに向かって観客の心を引き込むために、扉を開けて手招きしただけだった。
 面白い。そして、12年前の印象と全く違う。12年前の「法界坊」は傑作として高く評価されたが、勘三郎は自ら作り上げたその「傑作」を堂々と乗り越えさらに上の頂きに向かっていたのだ。もちろん串田和美の力も大きいのだろうけれども。
 自らの作り上げたものを壊し、もっといいものにした。
 これは再演ではない。12年前の傑作を上回る傑作の上演だ。新作以上の新作だ。まるで次元を越えたような感覚を味わった。12年前の傑作は今回の上演を見るための巨大なプロローグのようにも思えるくらいだ。
 それを非常に分かりやすく魅せてくれたのが、二時間の本編終了後、30分の休憩時間のあとにある25分の浄瑠璃だ。本編をそのまま引きずっての作品だが、最後に舞台奥は放たれ、とんぼ達と江戸歌舞伎の醍醐味を見事に魅せてくれ、それは、スカイツリー、隅田川、そして、桜咲く日本を借景に繰り広げられ、最後に勘三郎は自らの肉体を放り投げて舞うのだ。余りにもの劇空間は中村屋がものすごい極みまで到達したことを宣言した。勘三郎はいろんなことをする。いろんな人と付き合う。しかし、それらは全てただただ歌舞伎のために行なってきたんだ、と分かって涙が止まらなかった。合点がいったぜ、中村屋!
 人間が生きるとは、生き抜くとはどれだけの覚悟と全てを掛けての姿勢が必要なのかをこの御大は魅せてくれた。圧倒してくれた。
 全ての人に見て欲しい。何があっても見て欲しい。
 今春世界で上演される舞台芸術の中でも屈指の傑作であろう。
 人を感動させるために、病み上がりのもうすぐ60になろうという男が命をかけて駆け抜ける。自らの名声なんかにこれっぽっちも頼っていない。この1ステージが全てだと言わんがばかりに。
 俺はそうやって生きてるか?少なくともたまには?って思ってしまったよ。
2012年4月3日@隅田公園内平成中村座仮設劇場
演出/岡村俊一 脚本/渡辺和徳
出演/馬場 徹 中河内雅貴 磯貝龍虎 市瀬秀和 疋田英美 /丸山敦史 黒川恭佑 松本有樹純 とめ貴志/中川晃教(特別出演)・加藤雅也 ほか


「徹底的な娯楽大作」
 渡辺和徳の描く「サムライ7」は黒澤作品などとは全く関係なく、時代は入り乱れ、いい意味で何でもありの作品で、まるで新感線を感じさせるようなテンポである。映像の人だと思った、いや大根役者だと思っていた、加藤雅也がスゴくいい役で芝居も旨い。看板を張れる役者勢揃いの舞台でも、事実上の主役。が、加藤さんオーラがあるから説得力がある。若くてイケメンでアクションもできる面々と違う次元で存在している感じがあった。2012年4月3日@青山劇場
出演/東山義久/安寿ミラ/岡幸二郎
遠野あすか/舞城のどか/佐野大樹 ほか
脚本・演出 /荻田 浩一 音楽/斉藤恒芳 振付/平山素子/港ゆりか

「東山義久はスゴいのである」
 東山義久の身体能力はものすごい。オーラもスゴい。冒頭から圧倒された。それは車いすに乗り動かないときからも抜群のオーラも発していた。もう何年も前からダンスグループのダイヤモンドドックスの噂は聞いていた。機会があって今回、そのリーダー格の東山義久の出る舞台を観る事ができた。東山と4人のダンサーが出ているのだが、平山素子の素晴らしい振付けもあって、ダンスシーンはものすごく舞台の密度が上がる。冒頭から、ドビッシーの「牧神の午後への前奏曲」が流れ、東山も角をつけていたので、なるほど!と思った、が、この舞台脚本が良くなかった。例えば、バレエリュスという言葉が出てくるが、これが、ロシアバレエのことを意味する事をどれだけの観客が知っているだろうか?フランス語を勉強した人は別として、ね。しかし、それはキーワードなのである。稀代の興行師ディアギレフとニジンスキーの同性愛のことや、ニジンスキーが舞台上でオナニーをして注目を集めたといった下世話なことばかりに焦点が当てられる台本は本当に酷かった。
 そんなのキモイぜよ!
 せっかく東山義久がニジンスキーを演じるのだから、先ずは彼の振付けの代表作である「牧神の午後への前奏曲」を東山に踊らせるべきだし、それ以前のロシアバレエとの違いを明確にするためにも、以前のバレエも東山に踊らせるべきである。
 もちろん平山素子の素晴らしい振付けも面白いし必要なのだが、ニジンスキーに肉迫するためには、ニジンスキーの本質であるダンス革命を「出演者のモノローグで説明するのではなく」見せてしかるべきだろう。それを、普段はクラシックバレエを踊らない東山が踊るから面白いのだ。そして、この男なら踊ってみせるだろう。東山義久にとってもせっかく挑戦する座長興行だ。普段のチームで見せられないものを見事に踊ってみたかったはずだ。ところが、「牧神の午後への前奏曲」のメロディとニジンスキーと同じような半人半獣で角をつけ、有名なポーズまで東山に取らせるのに、その後はモノローグで、振付けの革命を起こしたのです!と台詞でおしまいなのだ。バカか!東山が踊れないと思っているのだろうか?
 踊れる男をキャスティングし稀代のダンサーの自伝を舞台化するのに、ダンスそのものから避けて、なにが「ダンスアクト ニジンスキー」だ。
 キャスティングした他のメインキャストに配慮するためか、不要で退屈な楽曲もダメ。そんな舞台裏の都合を観客の前にさらさないでもらいたい。安寿ミラと岡幸二郎は19世紀の世紀末から20世紀はじめの空気を見事に演じてみせたが、彼らでさえ、唄い始めると舞台の緊張感は途切れてしまう。あんな退屈な歌を岡幸二郎に唄わせる必要はあるのか?2人とも別に歌がなくても納得するはずだ。プロ中のプロの舞台人である。面白い舞台のためには何でもしてくれるはずなのだ。
 それも、岡の唄う歌のメロディはこれまた、バレエリュスで有名なリムスキーコルサコフの「シェラザード」のメロディをメチャクチャにしたものである。
 正直、ボクの方が圧倒的にいい楽曲をかけるなあと思いつつ聞いた。せっかく岡幸二郎のような素晴らしい俳優をキャスティングするのなら、ニジンスキーへの情だけでなく、彼自身の内面の葛藤を表現した台本でないと話にならない。岡の歌がうまい事は誰もが知ってる。歌は唄わせてもディアギレフのことをキチンと描かない台本を岡は喜んだろうか?
 それから、美しくはあるのだが遠野あすかの下手なこと。先ずは息継ぎ。台詞をしゃべる前にイチイチ、口から音を立てて息を吸うから、イチイチそれがマイクにのって大音響で開場に響く。こんな演技の基本中の基本が…。息継ぎが出来ない人だから、台詞の句読点を変なところでいれてしまう。台詞も調子でいうから伝わらない。岡幸二郎や安寿ミラと同じ舞台に出ているから実力の差が出過ぎてしまう。
 台本は、先述した本質に迫らないだけでなく、モノローグで全てを語ってしまう。芝居で見せない。こうした酷い本である上に、バレエリュスとは「ロシアバレエ」とも言わないし、例えば、あんなにいろんなことをモノローグで全部語って処理するのに、1幕の終わり「春の祭典」の音楽は相当長く時間を取って踊っているのに、ディアギレフが20世紀初頭のパリでその「春の祭典」で起こした文化的、芸術的な大騒動のことは全く語らない。
 バレエリュス、ディアギレフと言えば、パリで幕が降りる前から大騒動になった「春の祭典」事件が代名詞のようなものなのに。ストラヴィンスキーの書いたあの原始的な音楽にバレエの振付けがついて、一部の観客が脚を踏み鳴らして抗議したのだ。ああ、あ〜。
 平山素子の振付自体は、初見ながら相当面白い。だから、今月の新国立劇場の公演が楽しみになった。平山がいいこと、東山がすごいことは分かったけれども芝居としては相当酷いので休憩で失礼しました。
 僕が興行師なら、クラシックバレエの「白鳥の湖」のロットバルトに東山をキャスティングするなあ、と思いつつ帰ったのでありました。東山義久はスゴい。テレビや映画に出ていなくても、こういうスゴい人がいるのだ。
 2012年4月2日@天王洲銀河劇場
新国立劇場オペラ ヴェルディ作曲 オテロ


【指 揮】ジャン・レイサム=ケーニック
【演 出】マリオ・マルトーネ 【美 術】マルゲリータ・パッリ
【オテロ】ヴァルテル・フラッカーロ 【デズデーモナ】マリーナ・ポプラフスカヤ(降板)→マリア・ルイジア・ボルシ
【イアーゴ】ミカエル・ババジャニアン 【ロドヴィーコ】松位 浩
【カッシオ】小原啓楼 【エミーリア】清水華澄
【合 唱】新国立劇場合唱団 【管弦楽】東京フィルハーモニー交響楽団

「理想のオテロ4幕がここにあった」
 オテロはいろいろと見てきた。1990年ごろにロンドンでカルロスクライバー、ドミンゴ、キリテカナワというキャストで見たし、2003年のミラノスカラ座の来日公演のフォービスのオテロには圧倒され2回見た。これが僕の「オテロ」の最上経験だった。他にも例えば、メトロポリタンオペラや、昨年の6月にはパリでパリオペラ座の公演など、山ほど見てきたのだが、観るたびにこのオペラは難しいのだなあと思うのだ。歌唱も難関だがただ唄えばいいものではなく、求められる役作りと演技がとても難しいのだ。
 新国立劇場のプロダクションは50トンの水を使ったベネチアを再現したものとして美しいのだが、何かベニスの裏の庶民的なところで起きる感じだ。サンマルコ広場で起こる物語にした方がいいのではと思ってしまう。
 せっかく水を張っているのにその効果もあまり出ていない。美しいけれど効果的でないというのが感想。しかし、このプロダクションを前に見たときは、この美術の美しさの方が印象に残っていて歌唱や演奏についてはソコソコみたいな印象だったんではないか?
 今回の主役は音楽だ。素晴らしかった。特に今日の東京フィルの演奏は驚愕ものだった。音がなり始めたとたんに「何じゃこりゃ〜」と。それは、まさにムーティ/ミラノスカラ座の来日公演の時に聞いたときと相通じるシェイクスピアの悲劇が始まる激しさがあった。オケは縦もあってるし、セクションのピッチも素晴らしく、何よりもうねるうねる。ヴェルディサウンドがまさしくあったのだ。今日のオペラの公演は東フィルが引っ張ったといってもいい。
 また、演出の話になるが、オテロの登場を客席を歩かして舞台に上げたのは如何なものか?オテロの英雄感とか神聖は消え去り庶民性が増してしまう。そして、1幕ではフラッカーロの歌唱もそこそこであった。マリオデルモナコや全盛期のパバロッティのようなトランペットの音と比較したくなるような声はそこにはなかったからだ。しかし、イヤーゴのババジャニアンは冷徹な役作りで演技も歌も素晴らしい。天国などマヤかしだと言い切るところで観客の心をつかんだはずだ。デズデモーナのボルシは代役で登場であるがオテロがイマイチだったのに対し安定した歌唱を聴かせてくれた。
 1幕はオケは最高だったけれども歌唱は及第点という感じだったのが、終幕が近づくにつれてどんどん良くなっていく。2幕でのオテロとイヤーゴの掛け合いあたりからオテロにも火がつく、3幕のオテロとデズデモーナのやり取り、4幕の柳の歌のピアニシモ。オテロの死に至るまでの恐怖と狂気の葛藤にいたっては、世界最高峰のヴェルディオペラが初台に登場していたのだ。
 歌手では他には、エミーリアの清水香澄が素晴らしい。外国人歌手に負けない迫力と演技は特筆ものだ。(僕はブログで「チェネレントラ」でも素晴らしい歌唱を聴かせたと書いてる。もう名前覚えた。注目歌手だ!
 新国立劇場の課題としては、これは世界のオペラハウスに(それが一流であっても)共通するのだが、合唱や脇役の演技が酷すぎる事だ。分かりやすい例を挙げると、オテロが登場して軍人や市民が拳をあげて歓迎する。しかし、拳をあげ続けているだけ。形はあっても心がないのだ。前に声楽を勉強したのでもう一言だけ言わせてもらうと、腕を上にあげて英雄を迎える、手を振るなどをやっていると、あの場面でのフォルテの歌唱をするのに肉体がヘンテコになって発声しにくいはず。だから形だけになってしまうのだ。それなら、拳を上げ続ける愚かな悪目立ちはしないほうがいいのだが、やってしまうものなのだ。
 場面転換で一気に50人以上が舞台に入ってきたり出て行くときも、全員が位置につくまで芝居してないし、で、今度は退場の時には、動き始めたら芝居をやめてしまう。そういう段取りなので動いているだけ!これは、全くダメ。演技をするときには、きちんと動機がなければダメ。もう少しそこいら辺を丁寧にやらないと。
音楽は続いているわけで、目障りといったらない。
 まあ、夢物語だけれども、僕がオペラの演出に携わる事ができたら、そこいら辺を徹底的にやりたい。一度分かってしまえば、いろんなオペラで応用できる。
 要は小劇場の俳優でもちょっとまともな者ならできる演技の基本中の基本を合唱団は分かっていないのだ。
  一方で、今日は主役3人と清水は歌と演技が一体化し見事なのだが、それ以外は段取りの動きに歌がついているという感じになってしまう。ここをもっと丁寧に作り上げると劇的効果は圧倒的になるだろう。
 もう一度申し上げるが、この「オテロ」の上演は世界最高峰のものである。特に東フィルのオケが特筆もの。歌手たちも初日を終え、千秋楽に向かってもっと良くなるだろう。観客はヴェルディとシェイクスピアの悲劇に熱狂するだろう。この「オテロ」は絶対いい買い物だ。2012年4月1日@新国立劇場オペラパレス
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プロフィール
HN:
佐藤治彦 Haruhiko SATO
性別:
男性
職業:
演劇ユニット経済とH 主宰
趣味:
海外旅行
自己紹介:
演劇、音楽、ダンス、バレエ、オペラ、ミュージカル、パフォーマンス、美術。全てのパフォーミングアーツとアートを心から愛する佐藤治彦のぎりぎりコメントをお届けします。Haruhiko SATO 日本ペンクラブ会員
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