佐藤治彦のパフォーミングアーツ批評 忍者ブログ
自ら演劇の台本を書き、さまざまな種類のパフォーミングアーツを自腹で行き続ける佐藤治彦が気になった作品について取り上げるコメンタリーノート、エッセイ。テレビ番組や映画も取り上げます。タイトルに批評とありますが、本人は演劇や音楽の評論家ではありません。個人の感想や思ったこと、エッセイと思って読んで頂ければ幸いです。
[14]  [15]  [16]  [17]  [18]  [19]  [20]  [21]  [22]  [23]  [24
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。


指揮/尾高忠明 
ピアノ/ギャリック・オールソン メゾ・ソプラノ/加納悦子*
バリトン/三原 剛* 合唱/新国立劇場合唱団*


オネゲル ; 交響詩「夏の牧歌」
ショパン ; ピアノ協奏曲 第2番 へ短調 作品21
デュリュフレ / レクイエム 作品9*

「尾高忠明は緻密で知的である」
 デュリュフレのレクイエムは、フォーレのレクイエムにも似た音楽であるが作曲されたのが第二次世界大戦後ということもあって、無常観漂う曲である。「戦争レクイエム」のように直接的な絶望を前面に出さないが、あくまでも鎮魂歌として哀しみを歌い上げている。この曲がほとんど演奏されないのが不思議なくらいである。尾高はこの曲と適度な距離を取りながら、細部にわたってきちんと客席に届ける。曲に全てを語らせ自ら足したり引いたりしない。新国立劇場合唱団や独唱者も非常に高い水準で演奏してくれた。
 オネゲルの次に演奏されたショパンのピアノ協奏曲では64才のアメリカのピアニストで、初のショパンコンクール勝者のオールソンは感傷に浸ることは無く淡々と弾きあげる。ショパンらしい演奏ではない。それなのに、そこにマズルカのリズムが浮き上がってくる。ショパンというよりもピアノの魅力が発揮された演奏だった。2012年5月12日@NHKホール
PR

『本朝廿四孝』十種香
八重垣姫 中村 七之助
腰元濡衣 中村 勘九郎
原小文治 片岡 亀 蔵
白須賀六郎 坂東 橘太郎
長尾謙信 坂東 彌十郎
武田勝頼 中村 扇 雀

『四変化 弥生の花浅草祭』
武内宿禰 / 悪玉/国侍/獅子の精 市川 染五郎
神功皇后/善玉/通人/獅子の精 中村 勘九郎

『め組の喧嘩』
め組辰五郎 中村 勘三郎
辰五郎女房お仲 中村 扇 雀
四ツ車大八 中村 橋之助
露月町亀右衛門 中村 錦之助
柴井町藤松 中村 勘九郎
おもちゃの文次 中村 萬太郎
島崎抱おさき 坂東 新 悟
ととまじりの栄次 中村 虎之介
喜三郎女房おいの 中村 歌女之丞
宇田川町長次郎 市川 男女蔵
九竜山浪右衛門 片岡 亀 蔵
尾花屋女房おくら 市村 萬次郎
江戸座喜太郎 坂東 彦三郎
焚出し喜三郎 中村 梅 玉

昼の部には、戦国の世の武田信玄と上杉謙信の争いを軸にした『本朝廿四孝』より八重垣姫の一途な恋を描く「十種香」、五月浅草の風物詩、三社祭の斎行七百年を記念し、祭の山車人形が踊りだす躍動感あふれる舞踊『四変化 弥生の花浅草祭』、粋でいなせな鳶と豪快な力士との華々しい喧嘩を活写した江戸世話物の傑作『め組の喧嘩』を上演いたします。
「より歌舞伎公演らしい5月公演」
 4月公演が昼夜とも通し狂言だったのに対し、昼の部は「め組の喧嘩」をメインにしてさまさまな歌舞伎の演目を並べた「いつもの」歌舞伎公演であった。特にメインディッシュが、4月の「法界坊」と似ていることもあり比較してしまう。そうなると渦巻いて盛り上がっていくものまでとはならなかった。もちろん「弥生の花 浅草祭」などのように舞踏の面白さを満喫させてくれるものもあった。

2012年5月9日@隅田公園内平成中村座仮設劇場



ショパン:ピアノ協奏曲第1番、第2番。
山下一史指揮 シンフォニアヴァルソヴィアメンバー
2012年5月7日@サントリーホール


ショパン: ピアノ・ソナタ第2番 変ロ短調 op.35 「葬送」
リスト: メフィスト・ワルツ第1番 S.514
ショパン: ノクターン ハ短調 op.48-1
リスト: ピアノ・ソナタ ロ短調 S.178
2012年5月9日 @サントリーホール → 演奏会に行くのをキャンセル


「狂気の世界にいってしまったピアニスト」
 恐ろしく空席が目立つサントリーホールに、狂気の顔をしたピアニストがショパンのふたつの協奏曲らしきものを弾いた。しかし、それはショパンではない。
 おそらく彼の演奏をきく最後の機会になるだろう。
 イーヴォボゴレリッチは少なくとも自分の狂気の沙汰まで彷徨って音楽作りをした勇者だった。ただ、今回明らかになったのは、あっちに行ってしまったことだ。あれは狂人の音楽だ。狂人、元天才。天才と狂人は紙一重とは本当だった。
 イーヴォボゴレリッチへのショパンコンクールでの評価=アルゲリッチの言った事は正しかった。
 今宵きいたショパンの2番協奏曲はたった2年前にボゴ自身で聞いたばかりだ。
 それが、もっと壊れ狂っていた。
 しかし、その2楽章の最後の一音の美しいこと。
時おり、聞こえる音色は、その瞬間の後すぐに狂気の世界に戻っていくのだけれども、その瞬間だけは、美の極地でもあった。狂気の世界では成立している音楽なのかもしれないが、とても聞けたものではない。
 3楽章の左手のあのリズムはなんなのだ。変なアクセント、異様で揺れるテンポ設定。

 イーヴォボゴレリッチが日本にデビューした頃、それは風変わりなコンサートだった。事実婚か夫婦だったのかはしれないが、アリスケセラーゼという女性とのジョイントコンサートだった。
 彼女はイーヴォを指導していたという。小太りでの中年の醜い女だった。
彼女はイーヴォをこっちの世界に止めようときっと綱を緩めたり締めたりしていたんだと、今なら確信する。
 10年くらい前までは、イーヴォの音楽は普通の一流の演奏家の音楽で、その狂気は滲み出てくるくらいだったから。それぐらいが聴衆にとってはありがたいのだ。自分の心と感性の中で鳴り響いていたのを思い出す。北島マヤ=「ガラスの仮面」の奏でる音楽が。

 その女は早くしてこの世を去った。
 イーヴォの崩壊はそこから始まった。リミッターが壊れたのだ。
 小太りの調教師がいなくなったイーヴォの叫ぶ声が聞こえる。
 「ケセラーゼ、俺はお前が必要だったのに。俺の音楽はお前と二人で完成されていたのに。このフレージング、このテヌート、やりすぎか、足りないのか、方向性が違うのか。いいのか悪いのか、もはや俺には判断がつかぬ…。何でお前だけいなくなったのだ」
 音楽家として、イーヴォとケセラーゼは漫才師のようにコンビで成立していたのかもしれない。いや違うか。美空ひばりとその母のようにと言い直そう。

 僕はもうイーヴォの生演奏は聞きません。
 過去30年近く、面白い演奏をありがとう。
 ただ、これからも、あなたが現にいた頃の、例えば、スカルラッティの録音を僕は聞き続けるでしょう。でも、
 物理的にあなたはまだいるのだから、いつでも現世にお越し下さい。
 サントリーホールや文化会館のロビーで
 亡霊の噂が囁かれたら僕はにやりとするでしょう。
 ハムレット第一幕が始まった!
 あの方が、彼岸からこちらに戻って来られた!。
 
 イーヴォは狂ってしまったが、踏みとどまったピアニストがいた。
 スビャトラフリヒテル。
 晩年のリヒテルの音楽は深く深く狂気の世界に近づいていたように思える。
 シューベルトなんか弾くと大変な事になるよ、リヒテル!
 10代の僕はそう思ったものだ。
 コンサートホールを暗闇にし、
 その暗闇の中でスタンドに灯りをともし演奏していた姿。
 きっと楽譜をあえて譜面台の上におくことで、踏みとどまっていたと思う。
 
 音楽家、アーチストは孤独の極地にいるのだ。
2012年5月7日@サントリーホール
監督脚本/ウディアレン
出演/キャシー・ベイツ、エイドリアン・ブロディ、カーラ・ブルーニ、マリオン・コティヤール、レイチェル・マクアダムス、マイケル・シーン、オーウェン・ウィルソン

ハリウッドで売れっ子の脚本家ギルは、婚約者アィネズと彼女の両親とともにパリに遊びに来ていた。パリの魔力に魅了され、小説を書くためにパリへの引越しを決意するギルだったが、アィネズは無関心。2人の心は離ればなれになり……。キャストはギルにオーウェン・ウィルソン、アィネズにレイチェル・マクアダムスのほか、マリオン・コティヤール、仏大統領夫人としても知られるイタリア出身の歌手カーラ・ブルーニら豪華スターが顔をそろえる。第84回アカデミー賞では、アレン自身3度目となる脚本賞を受賞した。


「これぞ傑作。パリを描いた最高の映画のひとつ」
 ウディアレンは傑作を山ほど送り出してきた。彼は彼の愛する街を描くのが素晴らしい。特にニューヨークは数々の映画でその素晴らしさ美しさを描いてきた白黒で描いた「マンハッタン」を超えるニューヨークの映像は未だにない。そして、彼はパリが大好きである。残念ながら彼のファンが多く大事な市場であるはずの東京にはあまり興味がないみたいだけれども。「世界中がアイラブユー」でパリの魅力をある程度描いたなあと思ったけれども、この作品はとうとうウディアレンがパリの素晴らしさを描き切った作品を生み出したといえるだろう。冒頭の数分間は昼のパリの映像がただただ映し出されるだけである。そして、それだけで、観客はノックアウトされてしまうのだ。その手法は「マンハッタン」の冒頭でも使われた手法であったけれども、今回も完全にやられてしまった。そして、昼でもこれほど美しいパリだけれども夜はさらに…と映画は進むのである。
 憧れの思いと現実を引きずりつつパリで体験するノスタルジア。夜に起きるファンタジーは心の中では誰もが経験していることだろう。それを美しく楽しいウィットに富んだ、そして何よりも都会人のユーモアをもってウディアレンは描くのである。こういう映画に出会うときっと映画好きになる。ああ、映画館で見たかった。2012年4月4日@機内映画
監督/アレクサンダー・ペイン 脚本/アレクサンダー・ペイン、ナット・ファクソン、ジム・ラッシュ 撮影/フェドン・パパマイケル
キャスト: ジョージ・クルーニー、シャイリーン・ウッドリー、アマラ・ミラー、ニック・クラウス、ボー・ブリッジス、ジュディ・グリア


「ハワイの美しさに描く、人生の受け入れ方」
 この映画の原題が大切である。the Dedcendants 子孫、末裔という意味合いがある。この映画の主人公はハワイのハメハメハ大王から受けついだ土地持ちの弁護士であり、この土地にまつわる話も映画のひとつのキーになっているので、このタイトルとなるわけだが、この Dedcendantsという言葉、動詞の Dedcend となると、下る、傾く、降りるといった若干ネガティブな意味合いをもったものになる。
 ハワイのオアフだけでなくハワイやマウイといった他の島々の魅力的な風景をふんだんに見せながら、決してバケーションでそこにいるのではない暮らす人々の直面する人生を描く。それは美しいどころか、矛盾と弱点をふんだんに孕んでいるのだ。
 ジョージクルーニー演じる主人公が、人生のさまざまなことに直面しながらそれを積極的ではないにしろ受け入れて、最後にはそれらも含めて愛せるようになる姿を描いている。ひとつの人生の叙情歌である。脚本賞でオスカーを受賞。しかし、撮影が素晴らしいのだけれども。タイトルも音楽も秀悦。
 しかし、ジョージクルーニーは作品選びがスゴくいい。オスカーは逃したが彼の代表作になるだろう。 2012年3月21日 機内映画
指揮 ロジャー・ノリントン

NHK



Bプロ
ベートーヴェン / 序曲「コリオラン」作品62
ベートーヴェン / ピアノ協奏曲 第4番 ト長調 作品58
ブラームス / 交響曲 第2番 ニ長調 作品73
ピアノ/河村尚子

「この新鮮な響きは印象派の絵画に似て」
 ベートーベンでは、馬蹄形に並んだオーケストラ。コントラバスは舞台後方。弦のセクションは向き合い同じセクションでも距離が近くお互いの音を聞きながら演奏する事になる。ピアノはオーケストラに包まれるようにおかれ、まるで弾きぶりをするような配置である。通常よりもピアノと各演奏者の距離も近い。協奏曲の時はノリントンはオーケストラの真ん中にいて、前を向いたり後ろを向いたりで指揮をする。
 ノリントンの導く、ピュアトーンは、いわゆるヴィヴラートを排する。ピリオド奏法ともいう言葉から連想されるように、各々の奏でる音を極める事を求めている。ヴィブラートが許されないということは、どういうことだろうか?
 音はドレミファソラシドと音階があるが、もちろんドとレの間にも無数の音階がある。ヴィブラートはそれを揺らしながら、揺らぐ音を奏でるわけだ。つまり、分かりやすく書くとド−→ド→ド+→ド→ド−といった具合にある範囲を揺らぐのである。
 また、ホールに残響があるように、音の長さも綿密に表現すればアナログなのである。一方でピュアトーンは、そういう揺らぎを極力排していこうとする。だから、特に弦の奏者を中心に、音の揺らぎをなくそうと、お互いの音をきき、一点の音の極みにたどり着こうとするわけだ。音の長さも同じである。8分音符は8分音符ジャストの長さで行こうというわけだ。
 こういう演奏をするということは、奏者は極めて高度の技術と集中力を求められる。N響のような文化的、教育のメソッドも割と似通った背景を持つ楽団は向いているのかもしれない。昨年のノリントンの演奏に比べて、ピュアトーンの魅力が爆発的に表現されていたように思える。音の極みは、まるで印象派の絵画を観るようだ。例えば、セザンヌ、たとえば、ゴッホ。彼らがキャンバスに陽光に光る緑を表現するために、息吹く花を表現するために、原色を乗せていったように、極めて純粋な音の放射があるのだ。
 弦からティンパニまで見事にこのピュアトーンの魅力を表現していた。ああ、ああ!N響はここまで柔軟に表現できる楽団なのか!東京にいることが惜しい。何で欧米と東京は航空機移動で15時間もかかるのだ!時差があるのだ。もしも、数時間であれば年に何回も、ちょっと気楽に、それこそN響が地方都市で演奏会をするように気軽に欧州の西洋クラシック音楽の本場でこの魅力ある楽団の真価を分かってもらえるのに!
 僕は河村尚子というピアニストを知っているわけではない。
しかし、彼女はこのピョアトーンの中に身をおいて、その空気を見事に感じ取り演奏していた。僕は、ベートーベンのピアノ協奏曲といえば、バックハウスの録音で始まり、ルドルフゼルキンで聞いた生演奏を極上のものとする価値観で生きてきた。それを打ち破ったのがポリーニであった。彼のイタリア的、いやルネサンス的美学溢れる美しい音のベートーベン。若く魅力的な造形美は90年代以降になって、僕の演奏のあるべき理想像に大きな影響を与えた。
 河村が今回の独奏者に据えられているのをしって、正直、何の若造(女性であるが)が!と思ったのだ。まあ、若いから指がサーカスのように動く演奏を聴かせてくれるだろうけど、そんなのベートーベンじゃねえ!と思って会場にいたものだから驚いた。ベートーベン造形美を感じさせながらも、細部に至って見事に光沢されていたのだ。そして、ジャズというかロックというか、なんてノリのいい演奏なのか!
 1楽章の出だしは極めて自然なのに、オーケストラとのやり取りの中で高まっていく音楽の魅力に溢れていた。日本で活躍するのもいいが、どうか内田光子のようにキャリアをどう築くかじっくり考えてもらいたい。本当に素晴らしいピアニストだ。
 ブラームス2番交響曲。ブラームスの田園交響曲とも言われるこの曲は極めて渋い。渋いながらにメランコリーなメロディが時々顔を出す。難しいシンフォニーだ。後半は演奏者をどっと増やして、前半よりも通常の配置のオケに近づいていたが、コンセプトは同じだった。ピュアトーンが時に上手く行かず弦のセクションの音が金切り声に近づいてしまいキズが全くない演奏というわけではないが、やはり素晴らしかった。というよりも、聞けて幸せだった。しかし、ベートーベンに比べるとピュアトーン演奏が成功していたとはいえないと思う。きっとピュアトーンは純粋な古典派に向くのだと思う。でも、この演奏方法をベートーベンまでで収めてしまうのは勿体ない。次のノリントンとN響の共演は年末の第9交響曲だ。楽しみに待ちたい。
 2012年4月26日@サントリーホール
DANCE to the Future 2012 平山素子振付によるトリプル・ビル
「Ag+G」湯川麻美子 寺田亜沙子 益田裕子 奥田花純 五月女 遥 福田圭吾 貝川鐡夫 古川和則 原 健太 八木 進
「Butterfly」丸尾孝子 宝満直也
「兵士の物語」【兵士】八幡顕光【プリンセス】厚地康雄【3人の道化】大和雅美 小口邦明 清水裕三郎【悪魔】山本隆之


1.「Ag+G」新国立劇場バレエ団のための平山素子最新作。変化する銀、交錯する重力、ダンサーの肉体から迸るエネルギーは新たな時空へと向かう。
音楽:笠松泰洋「『Ag+G』for two violins」より、落合敏行
2.「Butterfly」2005年9月の初演以来、再演を重ね絶賛を浴びている男女のデュオ 音楽:マイケル・ナイマン、落合敏行 共同振付:中川賢
3.「兵士の物語」          
2010年12月「ストラヴィンスキー・イブニング」で初演された衝撃作。ピアノ・ヴァイオリン・クラリネット三重奏による上演です。


「この作品が国税で作られている事を意識して」
 出かけてみたら最前列だった。そして、今回は舞台と客席は同じ高さだ。言うまでもなく対峙させられる。ダンスを普段見ているわけではないので、こういう作品をどういう視点で観るのかということから自分と問答する。少ないとはいえ、バレエも観るし、演劇、オペラなどの舞台芸術は多く観るので取っ掛かりはそこになる。
 新国立劇場の踊り手たちの肉体は素晴らしい。そして、その肉体は重力からさえも自由であるかのようだ。ダンスは肉体によって表現されるものだから、それを伝える踊り手がこれだけの技術と、それだけでなくたった2回の公演、中には1度しか踊らないにも関わらずこれだけの集中力と懸命さでその瞬間に取り組む姿勢はプロだということを考えてもそれだけで感動する。
 しかし、だ。平山素子の作品は、それに相応しいほど素晴らしかったのか?
2作目の「バタフライ」は面白かった。見ていて飽きないし、オリジナリティも感じられた。男女のペアの肉体の関係が発展し崩れ動いていく。交差し交わり反駁し合い愛し合う。生の危うさと強さを感じさせる作品だった。ナイマンの音楽も照明も良かった。この作品は、踊り手には高度な技術と集中力を要求するし、作品に自らを捧げることも求められる。それに2人は良く答えていた。宝満には若さがあり繊細でのびやかだ。それに対して丸尾には少々若い溌剌さがないなあと思ったけれども、それは表情を隠してしまうメークにあったのかもしれない。

 しかし、あとの2作品はイマイチであった。

 先ずは1作目「AG+」つまり、銀という意味である。
 舞台には、銀色の鋭角なメタルをイメージさせる衣装、銀色に塗る顔が導入される。こうして、具体的に物理的な銀を導入することの危険性に無頓着すぎないか?
 こうなると、この銀はメタルの銀の世界となってしまう。さらに、そこまで物理的に銀があると、踊りでその銀よりも銀以上のものを見せなくては、衣装とメークに負けてしまう。
 銀というタイトルはいい。とても哲学的だし抽象的にイメージはいろいろと広がる。抽象的な作品を僕は予想していた。
 それが、実際は舞台に、物理的に「銀」が山ほど導入された。こうなると色の銀、メタルの銀に固定されてしまう。
 「銀」というタイトル、そこと直結する衣装とメーク。タイトルは、作品を作る前に決めるわけだから。決めてしまった事はいいこととして、作品を平山が作る時に、その言葉から平山が連想する、感じる自由な、もっというと我々の持つ銀のイメージに寄り添うことなく、広がって作っていけばよかったのだ。
 そこに、ここまで物理的に銀を見せられると、それぞれの観客の持つ銀自体のイメージから離れる事は難しくなってしまう。
 
 ダンス、肉体のモーメント自体も高度な技術であるけれども、そこから自らの衣装、メイク以上に銀を感じさせるものは何もないだろう。
 2つのバイオリンの音楽が流れる中、激しく変わっていく踊り。ソロ、デュオ、全体といろんなタイプの踊りを組み合わせていくのだが、その踊りの技術は素晴らしい。
 でも、そこに物理的な銀でダンサーは埋められる、タイトルもこうあると、何でこの作品が「銀」なのか?となってしまう。
 そうなのだ。我々も自由に作品と向き合えなくなってしまうのだ。タイトルと衣装とメークが、ダンサーと観客の間に大きな壁を作ってしまった。失敗作だ。

 「兵士の物語」はもっといけない。
 ストラヴィンスキーは20世紀の大振付家がその音楽に素晴らしい振付けをすでに施している。そして、ここでは、道化師にいわゆる古いイメージの道化の、悪魔には悪魔の衣装を着せ、男のダンサーにプリンセスとして圧塗りのメークと女装までさせる。こうなると通常のバレエと比較されてしまう。
 なぜなら、バレエをやりますと宣言しているようなものだからだ。
 平山はストラヴィンスキーの作った音楽「兵士の物語」の枠の中で作品作りをしなくてはいけない。
 平山は、「兵士の物語」の作品に沿って、バイオリンや「金のなる本」を出してみせるし、悪魔と交換し、悪魔が女装して兵士のもとに来たりもするのだが、それは、この作品を見るだけでは分からない。見ていると、平山は物語から離れて振りつける部分ばかりには彼女の興味ややる気も感じるのだが、物語部分はソコソコやってるだけで丁寧にやっていないので、物語が伝わって来ないのだ。
 バレエとしてのダンスの見どころを提供してもいないし、「兵士の物語」をもきちんと語っていない。もともとこの作品は踊りだけで見せる難しさがあるからこそ、語り手を導入している。それを省くのなら、きちんとダンスで見せなくてはいけない。これじゃあ、タイトルに「兵士の物語」を冠するのは過ぎるだろう。
 この作品は、「兵士の物語」そのものに、きちんと対峙することなく、他の作品と同じようにただイメージで振付けているような印象をもった。
 作品のへそもないし、登場人物に衣装以上のキャラクターをもって演じさせない。高度な踊りのテクニックを踊り手には要求しているけれども、それが作品の中で生きていない。あれだけ踊らされても何も「兵士の物語」は伝わらない。本質が伝わらないだけでなく、物語の筋も伝わらないのだ。
 踊り手が可哀想だとさえ思った。悪魔をやった山本隆之などは悪魔を踊ろうと、分かりやすい動きをするのだ、しかし、そこから物語がほとんど起こらない。黒い顔、白髪頭、分厚いコート。分かりやすい悪のイメージだけで勝負できるわけない。
 だいたい、そんな古典的なフェアリーテール的アプローチは20世紀の音楽には通用しないことを平山は分かっているのだろうか?
 もっと当たり前の衣装やメークを排して、もっと踊りで見せていくことをしなくてはいけない。衣装やメークはそれを助けるものなのだが、踊りがあって、そこに添えられるものでなくてはならないはずだ。逆ではおかしい。
 繰り返しになるが、センスがないなあと、衣装とメークで思ってしまった。あれじゃ表情は見えない。「AG+」の衣装では踊りがきれいに見えない。「兵士の物語」では、古典バレエのように分かりやすい衣装を着せるだけで何も起きない。平山的アプローチをするのであれば、もっと自由に自分の作品を作るために、そのようなイメージからも自由でなくては作品作りはできないはずだ。何よりも踊り手の表情をしばり、動きがきちんと伝わらない衣装やメークをそのままにしてしまうのは、如何なものか?
 新国立劇場の予定をみると、来年も平山氏の作品を上演する予定があるようだが、新国立劇所は、この若い人物に毎年税金を使って作品を発表する場を提供していくのか?それならば、新国立劇場の予算はもっと行革の対象にならなくてはならない。
 平山氏は国税を使ってではなく他のパフォーマーと同様、自ら上演資金を集め自らのリスクで公演を積み重ねてもらいたい。先ずはそこから初めて欲しいと切に思う。2012年4月22日@新国立劇場中劇場
パラドックス定数 第28項 「HIDE AND SEEK」
作・演出 /野木萌葱
出演/植村宏司 西原誠吾 井内勇希 今里真 酒巻誉洋 小野ゆたか
加藤敦 生津徹 大柿友哉 平岩久資

江戸川乱歩と横溝正史と夢野久作。
昭和の始まり、東京下町、文学界の、異端児三人。
まるで煙管の煙のような、現実と虚構の境界線。
その狭間で繰り広げられる、これは創造を巡る物語。



「確かにパラドックスに満ちた上演」
 パラドックス定数の噂は何年も前から轟いていて、実際何回か観に行こうとチケットの予約をしたり、チケットを買ったりしたもののその都度観に行けなくなってしまったので今回が初見である。評判の作品の再演である。
 演出は安定していた。なるほど!とも思った。作品も独特の世界観と綿密な取材に基づいた作品で高く評価されるのが分かる。3人の昭和の作家とそれらが生みだしたキャラクター6人が生みだす現実と幻想が交差する万華鏡的な話。そこに編集者が絡む。なるほど!である。
 もっとも僕だったらば編集者をもっと狂言廻し的な立場に追いやっておきたかった。というのはラストで編集者は文学者に、「アマデウス」のサリエリのように食って掛かるのである。クリエイター側に受容者代表として食って掛かるのである。越えられないその境界を嘆くのである。ここは誰もが共感できる世界なのである。ここを支点にこの作品は紡がれていっていいくらいなのだ。
 しかし、それならば、もう一工夫欲しい。というのは、この作品にはその越えられないはずの境界を越えた人間が登場するのだ。横溝正史である。この作品で横溝は当初編集者として登場しているのだが、この作品では、境界を越えていく過程、編集者で終わる男との関わりの変化がほとんど書かれていないのが残念でたまらない。
 そうなると作品全体が大幅に変わるわけだけれども。
 この作品には、現在の小劇場界注目の若手俳優が大挙して出演している。しかし、それは成功したであろうか?
 僕はこの作品を見ながら、未筆の僕の作品企画を思い出した。
 一時期、この手の作品を書こうとしたことがあるからだ。
 それは自分自身のことでもある。
 ご存知のように僕は現代を代表する純文学作家・島田雅彦と共著を持つ男である。一時期、良く飲んだし、取材旅行で何カ国も旅もした。その流れで、島田の苦悩と喜び、生活者として生きていかなくてはならない側面と芸術家として生き抜きたい側面を眺めてきた。島田と出会う前から、僕は島田の作品と出会っていた。多くの人が僕を彼の世界に引き込んだ。
 出会う何年も前から作品を通して島田と相当対峙したのだ。島田は同世代の作家とだけでなく、常に夏目漱石、三島由紀夫、ドストエフスキーと正面から向き合った、向き合ってる。そして、音楽。
 僕はそれまでも読んできたけれども島田と知り合って、再度、これらの文豪の世界と対峙することになる。彼らを眺めるだけでなく、どっぷり浸かって見た。それは、島田の世界を旅するために、漱石も三島もドストエフスキーも必要だからだ。
 島田は20代から現代を代表する若き作家のアイコンとして、その美貌もあって常に注目される存在であった。芥川賞最多ノミネート作家。だがついに受賞しないまま、いまや選考委員である。加齢とともに立場が微妙に変わっていくさまも本当に面白かった。そして、島田は孤独である。島田の作品に決定的な刺激を与えてくれる暴力的な存在が廻りにいるとはいえない。廻りに絡む人々は島田から欲しがるが与える存在ではない。だから、島田の発言はほとんど変化しない。もうテレビでの発言も書くものもリフレインである。ミーハーなアレレな人ばかりの取り巻きを含めて芸術家の生き様は苦悩にも満ちていて面白い。書く材料は山ほどあったのだ。
 しかし、僕は書いていない。なぜか?僕の廻りには、それを演じられる役者がいないからだ。
 野木さんは、この作品を上演するにあたって、その問題はどうしようと思ったのか?脚本を発表するだけでなく、演劇作品として上演するにあたって、野木さんの廻りの役者で文豪を演じさせるということについてどう考えたのかだろうか?
 演技が良かった俳優はいる。例えば、酒巻誉洋、例えば、生津徹。例えば、加藤敬。例えば、…。評判のいい野木さんの作品だから、小劇場界で評価の高い役者が集結している感もあるキャスティングだ。しかし、だ。この野木さんの本は、プリズムのようにちょっと光の当て方が変わるだけで変幻自在に変化していく演技を求められる難しい台本だ。俳優は自分の立ち位置を把握するのも一苦労だろう。リアル感一本で押し通せるものでもない。何しろ、明智や江戸川乱歩、金田一耕助、横溝正史らを演じなくてはならないのだ。
 それは、野木ワールドが放つ光に頼って演じるだけでなく、自らが光を放たないと対抗できない。それを若い小劇場の役者が体現できていたのかというと、残念ながら成功したとはいえない。
 いい方を変えてみよう。過去、文豪の小説の強烈な登場人物に、映像で舞台で名優達が格闘し演じてきた(しかし、多くが敗北した)そのキャラクターに対抗できただろうか?
 僕はこの1ヶ月、日本では平成中村座や文学座、ニューヨークでも名優の演技を山ほど見てしまったので、どうもハードルが高すぎるのだろうと思うけれども、僕がこの1ヶ月で見た俳優と同じレベルの人達がやるべき役柄だと思うのだ。
 僕は自分の感性と想像力を総動員して舞台上の人物を文豪らと捉えようと試みた。が、それが、野木さんの世界を観るのに必要な切符だからだ。しかし、その幻想の世界についぞ引き込まれる事はなかった。僕はここに小劇場演劇の限界を見てしまったのだ。そして、自分は書かなくて良かったなと思った。2012年4月21日@三鷹市芸術文化センター星のホール

「中村勘九郎は千両役者だ」
 演目を選んだのは勘三郎だろうが、勘九郎は見事にこの大役を成し遂げていた。本当に若く真面目に演技に取り組む姿には頭が下がる。僕は大ファンになった。
 最初の一声では、あれ誰だろうと思ったのだ。僕は小笠原騒動についてはほとんど知らない。前に見たのかどうかも覚えていないくらい。この悪漢を勘九郎は見事に演じ、もう一役、善人の役との演じ分けも見事。橋之助と2人でこの舞台を支えていた。昼は勘三郎が座長、夜は勘九郎が座長を立派に勤めている。中村屋の家系はこうして見事に引き継がれた。正直言うと、僕はクソ真面目に芝居に取り組む勘九郎の方がご贔屓になってしまったくらい。
 ただ、串田和美という素晴らしい演出家のいる昼の部と比べると、現代性という意味合いで、テンポやダイナミズムがイマイチで4時間の長尺はちょっとだれるのだ。平成中村座は定形幕が白、茶、黒で江戸時代はいろんな一座があっていろんなのがあったんだろうなと思いを馳せた。2012年4月17日@平成中村座特設劇場
<< 前のページ 次のページ >>
最新記事
(12/25)
(08/05)
(06/30)
(12/16)
(08/21)
(04/10)
(09/25)
(11/30)
(11/18)
(11/03)
(10/04)
(09/19)
(08/28)
(06/25)
(06/10)
(12/30)
(02/21)
(12/31)
(09/28)
(06/09)
(05/12)
(12/31)
(09/08)
(06/02)
(02/09)
プロフィール
HN:
佐藤治彦 Haruhiko SATO
性別:
男性
職業:
演劇ユニット経済とH 主宰
趣味:
海外旅行
自己紹介:
演劇、音楽、ダンス、バレエ、オペラ、ミュージカル、パフォーマンス、美術。全てのパフォーミングアーツとアートを心から愛する佐藤治彦のぎりぎりコメントをお届けします。Haruhiko SATO 日本ペンクラブ会員
カレンダー
03 2024/04 05
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30
フリーエリア
最新CM
[08/24 おばりーな]
[02/18 清水 悟]
[02/12 清水 悟]
[10/17 栗原 久美]
[10/16 うさきち]
最新TB
バーコード
ブログ内検索
カウンター
忍者ブログ [PR]