佐藤治彦のパフォーミングアーツ批評 忍者ブログ
自ら演劇の台本を書き、さまざまな種類のパフォーミングアーツを自腹で行き続ける佐藤治彦が気になった作品について取り上げるコメンタリーノート、エッセイ。テレビ番組や映画も取り上げます。タイトルに批評とありますが、本人は演劇や音楽の評論家ではありません。個人の感想や思ったこと、エッセイと思って読んで頂ければ幸いです。
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有吉佐和子 作 戌井市郎 齋藤雅文 演出

出演 水谷八重子 三田村邦彦 波乃久里子
丹羽貞仁/瀬戸摩純/井上恭太/甲斐京子

以下松竹のHPより
見どころ
医学の世界を舞台に、華岡青洲への愛をめぐる嫁・加恵と姑・於継。
女同士の争い、苦悩を描いた紀州華岡家、「家族の物語」。

この初夏、新派は有吉佐和子不朽の名作『華岡青洲の妻』を上演いたします。
世界初の全身麻酔手術を成し遂げた実在の名医「華岡青洲」成功の陰には、嫁姑が競って人体実験を望んだ女同士の”壮絶な戦い”があったというエピソードを有吉佐和子が劇化した名作です。昭和四十二年の初演以来、錚々たる俳優たちが演技の火花を散らし、上演が重ねられて参りました。

出演は姑・於継を初役で挑む水谷八重子、嫁・加恵に昨年紫綬褒章を受賞した波乃久里子、そして華岡青洲には新派初登場のゲスト三田村邦彦を迎えます。三人の熾烈な三角関係は見逃せません。また、藍屋利兵衛には新派四度目の舞台に挑む丹羽貞仁、米次郎・小陸には、新派次代のホープとして期待される井上恭太と瀬戸摩純が挑戦し、於勝役には甲斐京子という最高の配役が実現いたしました。

日本演劇史上屈指の名作と新派の新たな出会いよる極上の舞台にご期待ください。

【あらすじ】江戸時代中期、天明の頃。紀州の名門・妹背家の娘・加恵が隣村の貧乏医者、華岡家に嫁いできた。花婿の青洲は三年前から京都で医学の修業の身。花婿のいない祝言ではあったが、加恵は満ち足りていた。なぜなら、加恵は幼い頃に評判の気品のある於継を垣間見て憧れをもっていたので、理想の女性としていたその於継から直々に嫁にと望まれて、この上ない幸福を感じていたからだ。加恵は華岡家の人となるよう励んだ。於継も嫁の加恵を大事にして、その睦まじさは人も羨むほどであった。ところが、青洲が京都より帰郷すると、その様子は一変し、青洲をめぐり姑と嫁の凄まじい女の争いが始まった。
そうした女の感情には無頓着な青洲は医学の話に夢中で、門弟の米次郎たちとともに麻酔薬の研究や癌の手術などに没頭し、紀州きっての名医といわれるまでになった。研究も進み麻酔薬の完成には、人体実験を残すだけになると、於継と加恵は競って実験に身を捧げようと言い出した―。

「長い歴史で作り上げた21世紀平成の於継」
 「華岡青洲の妻」を新派で観た。僕は80年代に小劇場に行かなかった理由のひとつが、この芝居を文学座の杉村春子の舞台で観たことが影響しているのは間違いない。小劇場の役者は勢い良く動くけれども何を言ってるのかさっぱり分からない。芝居なのに台詞を大切にしないとは!と思って行かなかったのだ。文学座には芝居の大切なもの、それがちゃんとあった。青洲役には、北村和夫や高橋悦史、妻の加恵役は太地喜和子や新橋耐子で2−3回観ている。細かい筋なんか全く覚えていないのに、強烈な印象だけが僕の心に残っていた。
 10年ほど前に新橋演舞場で新派を観た後、全く観て来なかった。それが、この2年余り、ちょこちょこ観ている。どれもこれもが質が高くて面白い。メインを張る俳優の役者力、劇団としてのアンサンブル力、美術などもスゴく気を使っていてチケット代がちょっと高いのがたまにキズだけれども、こういう芝居を見せてくれるところが日本でほとんどなくなってしまった。
 和物に関して言えば、文学座でさえ、ものすごく減ってしまったから。
この芝居は元々は山田五十鈴さんで始まった芝居。それが杉村春子さんが演じたことによって、杉村さんのものになってしまったという不思議な芝居。杉村さんが亡くなったあとに、山田さんが演じたのだが、それを観ていないのをとても後悔している。昔の女優はいいねえ、本当に花があるし、可愛いし、ね。
 文学座で10年ほどまえに再演をやるという時には、全く興味を示さなかったし、池内淳子さんでの再演も、結局いかなかった。それが今回新派でやるときいていいかもと思ったのはこのところの新派は、観るもの観るものが全部当たっているからだ。日本橋、良かったね。東京物語、なるほど、こうしたか!スゴいね。大つごもり、いいねえ、年末にこんな芝居を見られるのは幸せだね。今年一年何とか生きれたことの感謝で終われるね、、、という具合。

 幕が上がったら、客席が紀州の空気になっていった。

 機織りの音をきいて、ああ、そうだった、そうだったと思い出す。

 紀州の言葉を聞いて、ああ、そうだった、そうだったと昔の舞台が蘇る。

 水谷八重子さんの於継は、これ、当たり役になると思う。
杉村春子さんのアプローチとちょこっと違う感じがする。杉村さんは、妻、加恵に対する嫉妬を露に出した、姑のイジメを隠すことなく出していた感じがする。分かりやすいと言えば、分かりやすい。
 それに対して、水谷八重子さんのそれは、もっと現代的。もちろん加恵に対する嫉妬もあるんだろうけど、それ以上に、華岡の家のこと、母親と息子の愛情とその関係がものすごく大切で、それらを少しも崩させまいとするアプローチによる演技だ。嫌な人でも悪役でなく、自然にそういう風になり、それが嫁の関係に影響してしまったという具合。意地悪で生きているのではなく、真面目に誠実に一生懸命生きてるだけ。これ面白い。
 人体実験されて、寝て、足をばたんと、布団をはだけるところとか、可愛いのだ。ユーモアがあるというか。加恵も、無碍に敵意を出しにくい存在なのだ。
 上演史を調べてみたら、水谷八重子さんは、水谷良子時代などに、加恵の役を杉村さんとも、山田五十鈴さんとも、淡島千景さんとも(この於継も観たかったな!)競演している。そういう名舞台を同じ舞台で見続けてきたからこそ作り上げることのできる名演技。長い歴史の末に作り上げた21世紀、平成の於継を作り上げた。
 そして、波乃久里子さん!ウマい!ちょっと若妻には見えないが!
 加えて感心したのが瀬戸真純の小陸。そして米次郎と於勝。文学座の芝居を見たときは若かったから分からなかったのかもしれないが、この芝居の二重構造の一端を見事に担っていた。僕は井上恭太という俳優は姿も演技もうまいが、口跡で時々舌足らず、音がこもるなあと思っていたのだが、今回はそれも見事に克服していた。大したものである。こういう基本的なことをきちんと克服することに挑戦しない俳優ばかりを観ているから。 

 きっといつの日か、瀬戸さんの加恵、井上の青洲で上演する日も来るだろう。それが楽しみだ。波乃さんは?って、僕は秘かに水谷八重子さんとともに、ダブル於継での競演を楽しみにしています。2012年6月22日@三越劇場
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出演/山口 良一・たかはし等、大森ヒロシ・まいど豊・村田一晃、長峰みのり(ペテカン)


「24年の積み上げの成果」
 単なる演劇でも、もちろんコントやバラエティーショーとも違う独自の分野である。2年ぶりに拝見した。大いに笑った、楽しんだ。このシリーズは10作以上観ているのだが、今回のはこの7−8年でも最も完成度が高かったように思える。これは1−2年で出来るもものではなく、24年間も続けて来たからこそできるひとつの頂きである。24年間やってきて、毎年洗い直すからできるのだ。ひとつひとつが展開にスピード感満載で、削って磨いたことが伝わってくる。山口良一さんの見事な間合いがスゴい。たかはし等さんの匙加減が絶妙。大森、まいどの自分の立ち位置の取り方。これ案外難しいものだ。僕は今回、一番驚いたのは村田さんが一年観ないうちにどんどんウマくなっていること。何だろう、自然体で舞台にいる感じが強くなった。しかし、この舞台ユルーくやってるように見えて、そんなことは全くない。劇団員だからと、舞台に若手が出られるものではない。出さないのは、ひとえにお客さんにいいものを見せたいという強い意志なのだろう。すごいな。長峰さんはその大役に見事に応えていた。プレッシャーでお腹が痛かったんじゃないか?2012年6月22日@ザ・スズナリ
ルドルフ・ブッフビンダー[ピアノ]

リサイタル
ベートーヴェン/ ピアノ・ソナタ第8番 ハ短調 作品13 「悲愴」
ピアノ・ソナタ第23番 ヘ短調 作品57 「熱情」
シューマン/交響的練習曲 作品13

アンコール
シューベルト/即興曲、
J.シュトラウスII=グリュンフェルト/ウィーンの夜会(喜歌劇《こうもり》等のワルツ主題による演奏会用パラフレーズ)



協奏曲《ブラームス:ピアノ協奏曲全曲演奏会》
クリスティアン・アルミンク[指揮]
新日本フィルハーモニー交響楽団[管弦楽]
曲 目 ブラームス/ ピアノ協奏曲第1番 ニ短調 作品15
ピアノ協奏曲第2番 変ロ長調 作品83

「ポリーニとは別の、オーストリア系の、しかし現代的な」
 11年前にブレンデルのリサイタルを初台のコンサートホールできいた。もちろんそれ以降もピアノのリサイタルは聞いてきたのだけれども、どうもぽっかり抜け落ちていた穴を埋めてくれたようなコンサートだった。
 例えばベートベンのピアノを誰で聞いて来たのかと考えると、バックハウスやグルダ、ゼルキン、ケンプ といった人達で、ホロヴィッツでも、ミケランジェリでもなかった。オーストリア系のピアニストとだった。ギレリスなんかも良かったけれども、これらの系譜として扱って良いのだろうと思う。
 1980年代となってこれらのピアニストが一線から退いたあとにフォーカスされたのがブレンデル(クロアチア出身)である。ところが彼は、3回もベートーベンのソナタの全集を録音しているのに、彼のシューベルトと比較するとその演奏は注目されなかったと思う。それは、バックハウスからの流れのそれだからかもしれない。ブレンデルもバックハウスらの巨匠と比べると、単なる良いピアニストでしかなかったのだ。一方で、そこに登場したのがポリーニで、彼がベートーヴェンに切り込んで来たのが80年代からだと思う。もう20年以上前だと思うのだが、彼の「熱情」ソナタをで生で聞いた時にこれは別物だと思ったものだ。
 そして、大きな支持を得ていくのである。ブレンデルの生演奏も聞くのはシューベルトが多かったと記憶している。オーストリア系のピアニストといえば、イエルクデムスなんかもいたわけだけれど、何かトップピアニストの系譜に切り込んでこなかったし、内田光子は、その系譜のはずなんだけれども、もっと独自の世界。
 何をいいたいかというと、ベートヴェンでさえもポリーニ的な世界に引き込まれていったのだ。デジタル時代に、ベートーヴェンの王道でさえもポリーニへ聴衆は支持を与えたということだ。
 それはイタリア的というか、光沢感のある音の粒が立っている音が光を放つ演奏なのだ。美しさが際立つ、誰にでも分かりやすいセクシーな演奏だ。まるでルネサンスの彫刻のようなのだ。それとは対極のオーストリア系のピアニズムの演奏は11年前にブレンデルの演奏をきいていらい遠ざかっていた。
 しかし、今宵きいておもった。やはり王道はこちらなのである。
 昨年末にきいたオピッツに懐かしさを感じたのも、その抜け落ちた何かを埋めてくれる存在だったからかもしれない。今宵、ベートーベンとシューマンの演奏をきいて、それを確信した。そして、ブッフビンダーはブレンデル引退後、きっとチラシなどの広告にあるようにウィーンの香りを運んで来てくれるオーストリア系演奏家の頂点のひとりであるということだ。
 音の粒というよりもパッセージや構成で勝負する。ところがブッフビンダーはブレンデルなどとも違う意味合いがある。それは、オーストリア系なのだけれどもとても現代的なのだ。例えば、悲愴の冒頭のゆっくりとしたテンポがプレストに映ったとたん景色は一変するのだが、その切り替えのギアチェンジが見事で、聞いている方が飽きない。デジタル時代のウィーンの演奏といっていいものだった。
 それは熱情ソナタでも遺憾なくはっきされ、楽章ごとに周到に考えられた飽きさせないピアニズムであった。そう考えてみるとブレンデルの演奏には、時おりどこか学究肌の、こうあるべきてきな匂いがしたものだが、それが彼には全くないのだ。後半のシューマンで、ああこのピアニストは続けて聞く価値のある存在だなあと強く思わせてくれた。
 そこでも、ポリーニ的なものとは明らかに何か別の世界のピアニズムを築いている。それが、少し時代に取り残されそうになったウィーンの、オーストリアのピアニストの反撃のようで面白かった。(6月16日)

 「協奏曲を聴く楽しみ」

 新日本フィルはかつて長いこと定期会員だったのだが、この10年近くはすっかりご無沙汰だ。昨年、チッコリーニにモーツアルトのコンチェルトと共演するのを久々に聞いたが、本当に粗くてひどい演奏だったので、正解だったなと思ったくらいだ。2003年からアルミンクがシェフになってから、一度も聞いていないことに気がついた。そして、来シーズンで退任が決まっているアルミンクを初めてきいた。アルミンクはオーケストラに、とにかく節をつける。無理矢理唄わせるという感じなのだ。聞きながら、ああやり過ぎ、ああ、品格ある日本人って本読ませろ、みたいに突っ込みをいれていた。オーストリア人だが。
 オーケストラはチッコリーニの時と比べると別の団体かと思うくらいに素晴らしいハーモニーを聞かせていた。弦のセクションも、例えば2番コンチェルトの3楽章アンダンテの冒頭の響きなど極上もの。チェロなどソロも素晴らしい。サイトウキネンかよ、と思うくらいにお互いの響きが聞こえていて、共振し美しいハーモニーが届く。ところが、4楽章に入ってフィナーレに近づいて、テンポが早く、高音なども出て、強音を求めるところになると、とたんにそのアンサンブルは落ちてしまう。アルミンクの要望に応えて意識がアルミンクに行き過ぎると、お互いの音は聞こえなくなり、合奏力は落ちてしまう。ううううーーーん、残念。
 1番コンチェルトでの管楽器のアンサンブルの聞かせどころの部分など、素晴らしい音で吹いているのに、フレーズの締め方が女々しく下品になっているのは、アルミンクの指示と見た。なぜなら、全体にそういうトーンだったから。
 アルミンクは、これぞアルミンクのブラームスという痕跡を残そうと必死になっているように思えて仕方がない。それよりは大ブラームスの前にひざまづいて、スコアに書いてあることを忠実に、オケの合奏力を極限まで高めることだけに集中した方がどれだけいいのかと思ってしまう。
 なぜなら、こうして痕跡を残そうと必死になるオケに対し、ブッフビンダーは、土曜日にきいたリサイタルと同じく、中庸の徳を行くのである。嫌らしい痕跡は何もない。ただ音楽を素直に弾く。ひとつひとつのフレージングを大切にし、内面から沸き起こってくる感情に忠実に弾く。オーストリアの演奏家としての王道を行きつつも少し輪郭をはっきりさせることを意識したという感じだ。
 しかし、これらも老成VS若さの競演と思えばいいものかもしれない。少なくとも協奏曲を聴く楽しみをドカーーーンと与えてくれた。先日の若林さんに聞いてもらいたいピアノだった。2012年6月19日


2012年6月16日&19日@すみだトリフォニーホール
指揮;エドデワールト
チェロ;ポールワトキンス

シューマン;チェロ協奏曲 イ短調 Op.129
マーラー;交響曲第5番 嬰ハ短調
2012年6月18日@東京文化会館大ホール


エルガー:チェロ協奏曲
マーラー:交響曲 第1番「巨人」
2012年6月20日@すみだトリフォニーホール



「ピリオド奏法の効果が」
 チェロの魅力をすごく感じた。チェロをあまり動かさずに骨太な演奏をする魅力的だ。さて、ベルギーを代表するオーケストラだという。それなりに見事な演奏をする。このオーケストラを聞いていて思ったのが、ものすごくピッチがあうということだ。音程もものすごくいい。なんでだろうと思ったら、このオーケストラはピリオド奏法をやっていたからだと思った。
 でもね、今や日本のオーケストラのレベルが高いのでわざわざ呼ぶ必要もないようなあとも思った。

ウラディミールアシュケナージ指揮
NHK交響楽団 定期演奏会


「アシュケナージ的なものに必要なこと」
 ピアニスト時代のアシュケナージにも思ったのだけれど中庸の徳をこの人は行こうとしているのは良くわかる。それはとても正しい路線なのである。感情が高ぶってもそれは内面で起こるのであって、決して音にそれをぶつけない。品格のある演奏になる。アシュケナージの演奏を聴いていて驚いたことは一度もない。それはがっかりする事も、へぇ、この音楽はこういう側面があるんだと思うこともない。
 それでこの厳しい音楽業界に生き残るのは至難の業なのである。
 昨年のちょっと変わったプログラムの時に、久しぶりにアシュケナージの指揮の演奏をきいて思ったのは、この人は老成すればするほど味が出るんだろうなと思ったことと、N響はアシュケナージとどこまで付き合う気があるのだろうと思ったことなのだ。いまやN響はアシュケナージから、学ぶ事はほとんどないのではないだろうか?それが演奏の緊張感のなさに現れてしまうようではいけないのだと思う。
 アシュケナージは中庸の徳の演奏を極めるのであれば、他の月では聞けないようなピッチのあった弦のセクションとか、立ち上がりのいいホーンセクションの音にこだわって欲しいのだ。合奏の極みをN響から引き出してくれないと、アシュケナージ的なもので行くのであれば、それがないと、いけないと思う。
 だから、今月の定期ではソリストがすべてをかっさらっていった。
 バルトークの2番コンチェルトは、空気や色合いの変化までこだわった演奏で、そこにブーレーズも認めるパウゼという稀代のピアニストが非常に現代の息吹のある鋭利な演奏をのっけた。もっとN響も尖って良いはずなのに、アシュケナージはそういう方向にはいかない。
 パボラークは現代最高のホルン吹きだということは良くわかった。N響もいい演奏をするのだが、彼の持つ飛び抜けた技術の前には、いい演奏であって、惚れ込む演奏とならない。
 アシュケナージはこれから演奏家としてどこに向かうのであろうか?来年は定期に登場しないのだが、さて、次があるのだろうか?と思ってしまう。



A定期
リムスキー・コルサコフ / 組曲「サルタン皇帝の物語」作品57
グリエール / ホルン協奏曲 変ロ長調 作品91(1950)
チャイコフスキー / 交響曲 第4番 ヘ短調 作品36
ホルン/ラデク・バボラーク
2012年6月10日@NHKホール



C定期
コダーイ / ガランタ舞曲
バルトーク / ピアノ協奏曲 第2番
R.シュトラウス / 交響詩「ツァラトゥストラはこう語った」作品30
ピアノ/ジャン・エフラム・バヴゼ

2012年6月15日@NHKホール
指揮 ゲルトアルブレヒト
ピアノ 若林顕
ブラームス ピアノ協奏曲第2番/交響曲第1番




「老齢な指揮者への移行について」

 読売日本交響楽団はいつのまにか一流のオーケストラになっていた。これは続けて聞く価値があると今年初めて定期会員になった。もちろん実際に会場に足を運べるのは半分くらいなのであるけれども。
 今宵の演奏会も全体としては極めてレベルの高い満足すべきものであった。
 これは、ウィーンフィルやシカゴ響を聞くのと同じものを求めていいのだと思って書く感想。
 
 今宵はかつての音楽監督であり、日本でも高い評価を得ているゲルトアルブレヒトである。曲目もブラームスプロ。
 1曲目のブラームスのピアノ協奏曲。ソリストは日本を代表するピアニストのひとりの若林。中堅のピアニストである。世界的なコンクールでも上位入賞した逸材である。しかし、天下のブラームスのピアノ協奏曲。私はこのピアニストの強みと弱みが如実に出てしまった演奏だと思った。
 ひとつひとつのパッセージを聞くとそれは美しい。私はこの中堅のピアニストに
録音で何百回もきいたバックハウスのような、もしくは実演できいたルドルフゼルキンのような演奏を求めているわけではない。しかし、私は思ったのだ。技術的には世界の超一流のピアニストまで上り詰めたと言っても、おかしくないこのピアニストが、基本的には日本国内のローカルピアニストで留まっている理由はどこにあるのだろうかということだ。私が心を動かされてきたピアニストと比べると、何か若林としての重しがない。若林流のピアニズムを感じないのだ。もっと違う表現をすると、この大曲に向かう姿勢が定まっていないのである。ある部分はバックハウス的だったり、ある部分はポリーニ的だったり、何か揺らぐのである。フォルテとピアニシモ、速いパッセージと叙情的な部分と何かつながっていないのである。そう聞こえてしまうのだ。きっと若林は勉強家でいろんなピアニストの名演も聞いたのではないか、どうも、そのつぎはぎに聞こえてしまう。僕は、ランランというピアニストがあまり好きでない。しかし、彼が受ける理由は分かる。自らのピアニズムが確立されている。それは、きっとこれから年を重ねていくうちに変わっていくのだろうけれども、少なくとも現時点のランラン流のピアニズムがあるのである。
 それが若林には感じられない。技術も部分的もいいけれど、全体をきくと、で、あなたはこの大曲に対してどう立ち向かったのかが見えて来ないのである。
 だから、例えば2楽章の冒頭のパッセージが決まって聞こえないのだ。
若林がひとつのパッセージが終わると頻繁に座り直し、燕尾服の尻尾の部分を直しているのが彼の音楽を象徴しているようだった。
 オーケストラは素晴らしかった。
 3楽章のチェロのソロの美しかったこと、それがバイオリンに引き継がれていくところのブリッジ部分など日本のオケかと思うばかりだった。
 アルブレヒトは96年にハンブルグオペラの来日で、確か「タンホイザー」を聞いて以来の実演である。16年ぶりということで、相当齢を重ねた感がある。私たちはこのベテランだけれども、決して大スターでない指揮者に何を求めるのであろうか?私は、ヘンテコな表現だけれどもドイツ流でないものを見つけ出し正していく検察官、ドイツ警察のような役割を期待する。アルブレヒトはアルブレヒトならではの強い芸術的個性を持ち合わせるというよりも、ドイツ=オーストリア芸術の伝統の流れの中で語られる指揮者であろう。そこに、カルロスクライバーが演奏したような個性を求めているわけではない。
 ブラームスの作曲したスコアの美しいハーモニーがきちんと表現されているか、オーケストラの息づかいがひとつになり動いていくか、それがドイツ的であるかを見てもらいたいと思っているのだろう。
 結果もその流れである。音質などは非常にドイツ的でさすがにアルブレヒトだなあと思った。けれども、小さなミスやキズが散見されるのである。例えば、バイオリンの高音部の強音になると音が汚くわめく感じに成ってしまう。出だしが揃わなかったり、例えば、4楽章のフルートソロの音量がでか過ぎてバランスを崩すといったこと、4楽章もあの有名なテーマが感動の極みのようなハーモニーを奏でたのに、管のセクションの音量がやはり大きすぎるといった具合。
 このような老齢の指揮者の演奏の場合、例えば晩年のカールベームの指揮のように、もう肉体を使ったものでも何でもない、いるだけの指揮でいいのである。それは、共演を重ねたオーケストラが自発的に、指揮者の意図を自ら読み解いて作り上げていく音楽でいいのだ。アルブレヒトはそこに気がついていない。老人の指揮者としての移行が終わっていないのだ。だから、オーケストラがアルブレヒトの指示によって演奏するという部分が残りすぎているのだ。アルブレヒトが、ダメだし出来なかった、本当は気がつかなくてはいけない、バランスとか音色とか、大きなところでキズが残ってしまうのだ。
 この歳なのだから、オーケストラの全てを統率すべきでない、それはノーランほか名うての演奏家が自らやればいいのであって、ただ、アルブレヒトは、座って指揮棒をあげて、自分の求めるものでない演奏をした連中を見てやればいいのだ。そういう指揮をするようになれば、アルブレヒトの指揮する演奏はもっと面白くなるだろう。若い頃の細かいところまで全部自分で見るというよりも、そういうことはできないよと自ら宣言して演奏に望むほうがいいのではないか?
 老成するということの難しさを感じさせてくれた演奏会だった。 2012年6月13日@サントリーホール


リスト:ピアノ協奏曲 第1番 変ホ長調
マーラー:交響曲第5番 嬰ハ短調


パーヴォ・ヤルヴィPaavo Järvi/
アリス=紗良・オット Alice Sara Ott (ピアノ / Piano)
フランクフルト放送交響楽団 Frankfurt Radio Symphony Orchestra

「ジャパンアーツに猛省をうながしたい」

 リストの協奏曲を弾くためにロングドレスを着てアリスが出て来た時に、多くの観客がオット(ダジャレじゃないよ)思ったはずだ。彼女はだしだったのだ。初めてだ。自分のスタイルがそれなんだろうと思ったのだけれども、彼女は何歳まで裸足のまま、人前で演奏するのかなと思った。というのも、彼女の演奏自体が裸なのである。リストの演奏というよりは、若く圧倒的な技術力の自分をだし、あまり考えず、私こんな感じなの!という何か少女のワガママさ、それが少女の魅力でもあるのだが、その延長線上の演奏だったのだ。そういう意味合いでは個性はあるし、客に媚びた演奏でないので面白かったのだが、彼女の容姿以上の魅力がピアノにあったのかというと大きな疑問符を打つ。秋にマゼール/N響で、今度はグリーグの協奏曲を彼女のソロで聞くので、彼女の評価はもう少し待っておこうと思う。
 もう一度いうと、あんまり深く考えない自分流の演奏って言う感じだった。
 マーラーの交響曲は、上手奥にしつらえられた無人カメラが轟音をあげていた。何か音がするなあと思っていたけれども、自分の気のせいなのかと思ったけれど、1階の8列センターで見ていて、あんまりこの辺りで聞かないので、空調の音が聞こえるスポットなのかなと思ったくらいうるさかった。
 ところが2楽章が終わった後に、ホルン奏者が立ち上がりクレームをつけに人を呼んだのだ。そして、カメラのスイッチが切れたとたんに音はやんだ。3楽章はホルンソロの聞かせどころなので動いたのだろうけど、それから演奏が俄然良くなった。会場にはジャパンアーツのトップの人が聞いていた。何であの轟音に対して何も動かなかったのか分からない。アーチストにも客にも失礼だろう。猛省を促したい。主催者として最低限やるべきことをやっていなかった。
2012年6月6日@サントリーホール
マットディモン

「マットディモンは全米の良心のアイコンである」
 マットディモンはもう完全にアメリカのブルカラー善良親父のアイコンになってしまった。いや成り下がってしまったなあと思う。動物、かわいい子役、亡き妻への愛、立ち直る男と立て直す家族関係。おまけに潰れかけた地域の人の思い入れたっぷりの動物園まで立て直してしまう。感動の要素がどんだけ詰め込まれた映画なんだよ!
 この映画、実話を下にしているらしく、確かに実際にも動物園もそこそこ成功したんだろうけど、もう映画での動物園の観客数が多いのなんのって、いくらなんでもそんなに来ないだろうと思ってしまった。
 
 この映画は映画の興行として成功するための要素ありまくりの映画で、冒険している感じがまったくない。せめて、キャスティングで、危なく過去にドラッグで一度消えかけたクリスチャンスレーターなんかが主役だったりしたら面白いのになあと思った。マットディモンももうこういう作品は山ほどやったから、セックス中毒や愛する妻に暴力を振るってしまう男の苦悩とかそういう役柄をやればいいのに。これじゃ~な~。いいたいことは「キセキ」は何も起きていない。予想通り、予定調和の映画なのであるのだから。でも見ていていい映画なんで。一度は見ましょう。原題がいいよな。私たちは動物園を買った!

2012年4月4日@機内映画
ドビュッシー / バレエ音楽「カンマ」
ドビュッシー / サクソフォンとオーケストラのための狂詩曲
ラヴェル / 亡き王女のためのパヴァーヌ
ドビュッシー (C.マシューズ編) / 前奏曲集 第1巻から「パックの踊り」「ミンストレル」第2巻から「水の精」「花火」[日本初演]
ドビュッシー(アンセルメ編) / 古代のエピグラフ
ラヴェル / バレエ音楽「ラ・ヴァルス」
指揮/準・メルクル
アルト・サクソフォン/須川展也


「準メルクルのフランスものについて。デュトワと比較して」

 現在世界でフランスものの圧倒的な評価を得ている指揮者といったら誰だろうか?いろいろといい人がいるだろうけれど、先ずはデュトワは挙がっていい。そして、長老で実はドイツものが得意だったりするジョルジュプレートル、すみだトリフォニーホールで3日間のラベルの演奏会が素晴らしかった、しかし、ガラガラというかほとんど客がいなかった、マイケルプラッソン。90年代にはリヨン管と来日してパリ管よりも魅力的だぜと思わせてくれたエマニュエルクリヴィヌがあがってくる。 
 しかし、日本のオケでということになると、やはりデュトワである。80年代にN響との初顔合わせの頃に聞いた「ファウストの刧罰」!に始まって、さまざまな演奏を聴かせて来てくれた。ちょっと幻想交響曲が多すぎる感じがするけれども。
 
 今日の準メルクル。素晴らしかった。ドビッシーのあまり演奏されない曲が多かった事もあるけれども、本当に良かった。休憩の時に、ロビーで「私はサクソフォンの音色が嫌いでね」などとクソったれな感想を述べている親父をどやしつけたかったくらいだ。感想は人に聞こえないようにやってくれ!と。なぜならその曲も素晴らしかったから!
 でも、デュトワのそれと違うなあと思いつつ、例えが良くないかもしれないが、こう思った。デュトワの演奏がマグリット的なシュールリアリズム的なくっきりはっきり系の音色で埋め尽くされるのに対して、準メルクルのフランスものは、印象派。それもマネの演奏のような感じがした。音色には濃淡があり、聞き込めばいろんな魅力的な音で埋め尽くされているが、ちゃんとハイライトされるメロディやリズムがある。
 浮世絵というより、その先の水墨画の淡い魅力のある音色であるのだ。フランス人の音楽へのこだわりのいい部分が出ていて、と思った。そして、いつものようにN響は世界的になったなあ、今日の演奏なんかベルリンフィルやウィーンフィルと、、、いや、違う。この演奏はN響だから出せる音色だと思った。ベルリンフィル/カラヤンのフランスものの魅力もあるし、デュトワがモントリオールを初めとして演奏して来たそれもあるだろう。もちろん、プラッソンなどのフランスものの名演もあるのだけれども、今宵の演奏は、19世紀から20世紀のフランスの芸術家たちが、愛した日本の絵画、浮世絵に影響された芸術家たちが産み出した芸術を日本人の演奏家のところに一周して戻って来たら、さらにハイな、素晴らしい演奏になりました!という奇蹟の名演ということが言えるのではないか。。。
 オケの音は拡がったかと思うと食虫植物に触った時にのように、キュっと戻ってくる。テンポは品よく揺れ、弦のピッチは揃い艶やか、木管がそこにゴッホのような力強いラインを一気に書き込んだかと思うと、それは打楽器も担っていて、紙の上に乗った砂が振動で揺れるような、音の色彩が花火のように舞う縁取りをしていた。
 もはや、ベルリンフィル、ウィーンフィル、シカゴ響、アムステルダムコンセルトヘボウといった世界のトップオケの機能を持ったN響は、いまそこにオケの個性までもが宿りつつあると感じたのである。欧米のオケではなく、アジア的な感性の西洋音楽の演奏団体として、サイトウキネンオケが合奏の機能美を披露したけれども、もっとアジア的な良さが前面に出た印象だ。
 ウソだと思ったら31日の演奏を聴いてもらいたい。
 僕は今日の最後の「ラヴァルス」の音色をきいて震えてしまって、涙が止まらなくて、今までにも何回も感謝したけれども、たった1回の人生で音楽を聴く人間になれたこと、それも、こういう素晴らしい演奏会を選べてそこにいられる幸せを心から感謝した。1億2千万からいる日本人でこの会場にいられるのは2000人程度である。奇蹟としかいいようがない。

2012年5月30日@サントリーホール
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プロフィール
HN:
佐藤治彦 Haruhiko SATO
性別:
男性
職業:
演劇ユニット経済とH 主宰
趣味:
海外旅行
自己紹介:
演劇、音楽、ダンス、バレエ、オペラ、ミュージカル、パフォーマンス、美術。全てのパフォーミングアーツとアートを心から愛する佐藤治彦のぎりぎりコメントをお届けします。Haruhiko SATO 日本ペンクラブ会員
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