佐藤治彦のパフォーミングアーツ批評 音楽 忍者ブログ
自ら演劇の台本を書き、さまざまな種類のパフォーミングアーツを自腹で行き続ける佐藤治彦が気になった作品について取り上げるコメンタリーノート、エッセイ。テレビ番組や映画も取り上げます。タイトルに批評とありますが、本人は演劇や音楽の評論家ではありません。個人の感想や思ったこと、エッセイと思って読んで頂ければ幸いです。
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ショパン:ピアノ協奏曲第1番、第2番。
山下一史指揮 シンフォニアヴァルソヴィアメンバー
2012年5月7日@サントリーホール


ショパン: ピアノ・ソナタ第2番 変ロ短調 op.35 「葬送」
リスト: メフィスト・ワルツ第1番 S.514
ショパン: ノクターン ハ短調 op.48-1
リスト: ピアノ・ソナタ ロ短調 S.178
2012年5月9日 @サントリーホール → 演奏会に行くのをキャンセル


「狂気の世界にいってしまったピアニスト」
 恐ろしく空席が目立つサントリーホールに、狂気の顔をしたピアニストがショパンのふたつの協奏曲らしきものを弾いた。しかし、それはショパンではない。
 おそらく彼の演奏をきく最後の機会になるだろう。
 イーヴォボゴレリッチは少なくとも自分の狂気の沙汰まで彷徨って音楽作りをした勇者だった。ただ、今回明らかになったのは、あっちに行ってしまったことだ。あれは狂人の音楽だ。狂人、元天才。天才と狂人は紙一重とは本当だった。
 イーヴォボゴレリッチへのショパンコンクールでの評価=アルゲリッチの言った事は正しかった。
 今宵きいたショパンの2番協奏曲はたった2年前にボゴ自身で聞いたばかりだ。
 それが、もっと壊れ狂っていた。
 しかし、その2楽章の最後の一音の美しいこと。
時おり、聞こえる音色は、その瞬間の後すぐに狂気の世界に戻っていくのだけれども、その瞬間だけは、美の極地でもあった。狂気の世界では成立している音楽なのかもしれないが、とても聞けたものではない。
 3楽章の左手のあのリズムはなんなのだ。変なアクセント、異様で揺れるテンポ設定。

 イーヴォボゴレリッチが日本にデビューした頃、それは風変わりなコンサートだった。事実婚か夫婦だったのかはしれないが、アリスケセラーゼという女性とのジョイントコンサートだった。
 彼女はイーヴォを指導していたという。小太りでの中年の醜い女だった。
彼女はイーヴォをこっちの世界に止めようときっと綱を緩めたり締めたりしていたんだと、今なら確信する。
 10年くらい前までは、イーヴォの音楽は普通の一流の演奏家の音楽で、その狂気は滲み出てくるくらいだったから。それぐらいが聴衆にとってはありがたいのだ。自分の心と感性の中で鳴り響いていたのを思い出す。北島マヤ=「ガラスの仮面」の奏でる音楽が。

 その女は早くしてこの世を去った。
 イーヴォの崩壊はそこから始まった。リミッターが壊れたのだ。
 小太りの調教師がいなくなったイーヴォの叫ぶ声が聞こえる。
 「ケセラーゼ、俺はお前が必要だったのに。俺の音楽はお前と二人で完成されていたのに。このフレージング、このテヌート、やりすぎか、足りないのか、方向性が違うのか。いいのか悪いのか、もはや俺には判断がつかぬ…。何でお前だけいなくなったのだ」
 音楽家として、イーヴォとケセラーゼは漫才師のようにコンビで成立していたのかもしれない。いや違うか。美空ひばりとその母のようにと言い直そう。

 僕はもうイーヴォの生演奏は聞きません。
 過去30年近く、面白い演奏をありがとう。
 ただ、これからも、あなたが現にいた頃の、例えば、スカルラッティの録音を僕は聞き続けるでしょう。でも、
 物理的にあなたはまだいるのだから、いつでも現世にお越し下さい。
 サントリーホールや文化会館のロビーで
 亡霊の噂が囁かれたら僕はにやりとするでしょう。
 ハムレット第一幕が始まった!
 あの方が、彼岸からこちらに戻って来られた!。
 
 イーヴォは狂ってしまったが、踏みとどまったピアニストがいた。
 スビャトラフリヒテル。
 晩年のリヒテルの音楽は深く深く狂気の世界に近づいていたように思える。
 シューベルトなんか弾くと大変な事になるよ、リヒテル!
 10代の僕はそう思ったものだ。
 コンサートホールを暗闇にし、
 その暗闇の中でスタンドに灯りをともし演奏していた姿。
 きっと楽譜をあえて譜面台の上におくことで、踏みとどまっていたと思う。
 
 音楽家、アーチストは孤独の極地にいるのだ。
2012年5月7日@サントリーホール
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指揮 ロジャー・ノリントン

NHK



Bプロ
ベートーヴェン / 序曲「コリオラン」作品62
ベートーヴェン / ピアノ協奏曲 第4番 ト長調 作品58
ブラームス / 交響曲 第2番 ニ長調 作品73
ピアノ/河村尚子

「この新鮮な響きは印象派の絵画に似て」
 ベートーベンでは、馬蹄形に並んだオーケストラ。コントラバスは舞台後方。弦のセクションは向き合い同じセクションでも距離が近くお互いの音を聞きながら演奏する事になる。ピアノはオーケストラに包まれるようにおかれ、まるで弾きぶりをするような配置である。通常よりもピアノと各演奏者の距離も近い。協奏曲の時はノリントンはオーケストラの真ん中にいて、前を向いたり後ろを向いたりで指揮をする。
 ノリントンの導く、ピュアトーンは、いわゆるヴィヴラートを排する。ピリオド奏法ともいう言葉から連想されるように、各々の奏でる音を極める事を求めている。ヴィブラートが許されないということは、どういうことだろうか?
 音はドレミファソラシドと音階があるが、もちろんドとレの間にも無数の音階がある。ヴィブラートはそれを揺らしながら、揺らぐ音を奏でるわけだ。つまり、分かりやすく書くとド−→ド→ド+→ド→ド−といった具合にある範囲を揺らぐのである。
 また、ホールに残響があるように、音の長さも綿密に表現すればアナログなのである。一方でピュアトーンは、そういう揺らぎを極力排していこうとする。だから、特に弦の奏者を中心に、音の揺らぎをなくそうと、お互いの音をきき、一点の音の極みにたどり着こうとするわけだ。音の長さも同じである。8分音符は8分音符ジャストの長さで行こうというわけだ。
 こういう演奏をするということは、奏者は極めて高度の技術と集中力を求められる。N響のような文化的、教育のメソッドも割と似通った背景を持つ楽団は向いているのかもしれない。昨年のノリントンの演奏に比べて、ピュアトーンの魅力が爆発的に表現されていたように思える。音の極みは、まるで印象派の絵画を観るようだ。例えば、セザンヌ、たとえば、ゴッホ。彼らがキャンバスに陽光に光る緑を表現するために、息吹く花を表現するために、原色を乗せていったように、極めて純粋な音の放射があるのだ。
 弦からティンパニまで見事にこのピュアトーンの魅力を表現していた。ああ、ああ!N響はここまで柔軟に表現できる楽団なのか!東京にいることが惜しい。何で欧米と東京は航空機移動で15時間もかかるのだ!時差があるのだ。もしも、数時間であれば年に何回も、ちょっと気楽に、それこそN響が地方都市で演奏会をするように気軽に欧州の西洋クラシック音楽の本場でこの魅力ある楽団の真価を分かってもらえるのに!
 僕は河村尚子というピアニストを知っているわけではない。
しかし、彼女はこのピョアトーンの中に身をおいて、その空気を見事に感じ取り演奏していた。僕は、ベートーベンのピアノ協奏曲といえば、バックハウスの録音で始まり、ルドルフゼルキンで聞いた生演奏を極上のものとする価値観で生きてきた。それを打ち破ったのがポリーニであった。彼のイタリア的、いやルネサンス的美学溢れる美しい音のベートーベン。若く魅力的な造形美は90年代以降になって、僕の演奏のあるべき理想像に大きな影響を与えた。
 河村が今回の独奏者に据えられているのをしって、正直、何の若造(女性であるが)が!と思ったのだ。まあ、若いから指がサーカスのように動く演奏を聴かせてくれるだろうけど、そんなのベートーベンじゃねえ!と思って会場にいたものだから驚いた。ベートーベン造形美を感じさせながらも、細部に至って見事に光沢されていたのだ。そして、ジャズというかロックというか、なんてノリのいい演奏なのか!
 1楽章の出だしは極めて自然なのに、オーケストラとのやり取りの中で高まっていく音楽の魅力に溢れていた。日本で活躍するのもいいが、どうか内田光子のようにキャリアをどう築くかじっくり考えてもらいたい。本当に素晴らしいピアニストだ。
 ブラームス2番交響曲。ブラームスの田園交響曲とも言われるこの曲は極めて渋い。渋いながらにメランコリーなメロディが時々顔を出す。難しいシンフォニーだ。後半は演奏者をどっと増やして、前半よりも通常の配置のオケに近づいていたが、コンセプトは同じだった。ピュアトーンが時に上手く行かず弦のセクションの音が金切り声に近づいてしまいキズが全くない演奏というわけではないが、やはり素晴らしかった。というよりも、聞けて幸せだった。しかし、ベートーベンに比べるとピュアトーン演奏が成功していたとはいえないと思う。きっとピュアトーンは純粋な古典派に向くのだと思う。でも、この演奏方法をベートーベンまでで収めてしまうのは勿体ない。次のノリントンとN響の共演は年末の第9交響曲だ。楽しみに待ちたい。
 2012年4月26日@サントリーホール
ニューヨークフィル
指揮/ヤップファンツェーデン Jaap van Zweden
マーラー作曲交響曲第1番「巨人」


「ニューヨークフィル新世代」
 オープンリハーサルであったけれども、楽章を切らずに演奏し、その後で多少の直しをして次にいくという次第だったので、この交響曲を十分に楽しんだ。オランダ出身のこの50歳を少し過ぎたまだ若手の指揮者はこの巨大な交響曲の各楽器をきちんと聞かせる事に非常にこだわっていた。そして、それがキチンと大きなまとまりを伴っている。素晴らしい演奏だった。
 この前に都響の演奏を聴いた時にも思ったのだけれども、60年代にルネサンスを迎えたと言われるマーラー演奏は常にユダヤ人の怨恨のメロディのように聞こえてきた。それが21世紀になり、純粋な管弦楽としての演奏が増えてきたように思う。
 このニューヨークフィルの演奏でさえ、僕が同じホールできいたバーンスタイン/ニューヨークフィルの演奏(ドイツグラモフォンの名盤として有名な交響曲3番のライブ録音を僕は立ち会ったのだ)と比べて、何とあっさりした、何とポジティブなマーラーなのだろうか。ワルター、バーンスタインといったユダヤ人の中のユダヤ人の呪縛の演奏から独立したって感じだ。死に向き合う人生哲学ともあまり寄り添っていない感じもした。僕はそれがとても気持ちよく聞いたのだ。
 今回そう感じたのだけれども、見ていて何となく理由も分かった。80年代終わりと比べるとニューヨークフィルに何とアジア系の演奏者が増えた事か。前はユダヤの黒い帽子=ジェイドを被った演奏者が多かったけれども、すっかり少なくなった。前回、ニューヨークフィルでマーラーを聴いたのは5番で、それもあのドゥダメルだったので、そういう変化を味合うことなく、ドゥダメル節に酔ってしまったわけだ。今回で分かった。世代は替わってマーラーは世界的にユニバーサルミュージックになりつつあるのだと強く思った。2012年4月12日@アビリーフィッシャーホール オープンリハーサル


「これは聞かないと損をする!」 最初にニューヨークに来てから、25年近く経つ。住んでいたこともあるのに、ジャズクラブで行くとなったら、ブルーノート、ビレッジバンガード。そして、リンカーンセンターのそばにイリディウムがあったころに行っただけ。バードランドの名前は高校のときには知っていたのに初めて来た。滞在しているところから3ブロックぐらいの近さにあることと、金曜日午後5時からのバードランドビッグバンドの公演はニューヨークで一番お買い得な音楽だとの宣伝に惹かれてしまった。ぽっかり空いた時間にやっていたのだ。
 行ってみると、満員。テーブル席は25ドルのミュージックチャージに、10ドルのミニマムチャージ。バーカウンターは20ドルのMチャージに、何か頼んでもらえれば…という具合。
 公演は途中30分弱の休憩が入るが2時間たっぷり。16人くらいの編成の音楽を堪能させてもらった。こういうヒップな感覚を残しフリージャズの香りのするビッグバンドの公演はほんとにいいものだ。休憩中は客の中心の中年男がこの日のリーダー に気軽に声をかけている。そういえば演奏中の間の会話も楽しく、リクエストにも応じているみたいで会場中がノリノリだ。いわゆる観光客向けにやる中途半端な公演でないのがいい。オーラスにバードランドのテーマを聞いたとき、ああ、これ小林克也さんのテーマ音楽みたいなものだと思った。子供のころから聞いていたあのメロディを堪能。秋からはワールドツアーもするというバンドだが、確かに実力者ぞろい。
 長年ニューヨークに来ているのにまだまだ行かなくちゃいけない場所は多いなあと思った次第。金曜日の夕方5時。ブロードウェイの劇場街のすぐそばにあり、ライブが終わってから十分にお目当てのショーも見られる。これからのニューヨーク訪問の定番になること確定だ!これは行かないと損をしますよ!

2011年4月6日@ニューヨークジャズクラブ バードランドにて
指揮:エリアフ・インバル
メゾソプラノ:イリス・フェルミリオン
テノール:ロバート・ギャンビル
マーラー:亡き子をしのぶ歌 /交響曲「大地の歌」


「死後100年でシオニズムから解放されたマーラー演奏の新たな到達点」
 15年以上聞いて来なかった東京都交響楽団。最近の評判があまりにもいいので、プリンシパルコンダクターインバルとの演奏に出かけた。驚愕した。2012年。マーラーの死後101年で、この作曲家の現代に生きる人類のためのシンフォニーはアジアの片隅でやっとシオニズムから解放されて音楽本来の魅力に溢れたものとなっていた。
 私は過去30年以上素晴らしいマーラー演奏をきいてきた。
 もちろん最初は録音である。
「大地の歌」を小生が最初にディスクで聞いたのはバーンスタイン/ウィーンフィルのFディスカウが唄う名盤で出会った。東京は練馬区大泉学園の自宅から、自転車で高校1年の頃、家から一番近かった、石神井公園の図書館まで自転車を走らせて借りた。LPレコードだった。最初のトランペットの咆哮を聞いた時に打ちのめされた。そして、ブルーノワルターのニューヨークフィルとのステレオ録音、これらの演奏が余りにも素晴らしく、普段は手を出さないモノラル録音まで手をだした。それは、ワルターのモノラル録音の名盤。カスリーンフェリアーを独唱に迎えてのウィーンフィルとの古い録音だ。もうこの曲の演奏は、これらの名演奏を頂点としたピラミッドの中で評価するしかなかった。
 これは僕だけの評価軸ではなく世界の一致した見解だ。マーラーと深い親交のあったブルーノワルター。マーラールネサンスと言われる時代が来るまでマーラーの伝道者であった。そして、ワルターの愛弟子であるバーンスタイン。この2人のユダヤ人によってマーラー演奏の規範は欧米に確立された。
 そして、生演奏も素晴らしいものをどれだけ聞いただろう。
 バーンスタイン/イスラエルフィルの伝説のマーラー9番。ドイツグラモフォンのライブ録音として名盤の誉れ高い3番は、バーンスタイン/ニューヨークフィルの録音された演奏をアビリーフィッシャーホールできいていた。マーラー演奏の規範となったショルティ/シカゴ交響楽団の5番。5番なら、シノーポリ/フィルハーモニア管弦楽団のサントリーホール開場記念の名演も忘れがたい。シカゴ響なら先年ハイティンクとの6番も素晴らしかった。他にもアバド/ベルリンフィル、さまざまな指揮者でのウィーンフィルのマーラー。テンシュテット/ロンドンフィル、ベルティーニ/ケルン放送響、若杉弘、マゼール、シャーイー、メータ、バレンボイム、ヤンソンス…。キラ星のような指揮者とオーケストラの忘れがたい名演をきいてきた。
 これらはマーラーの死後、すぐに始まる人類の悲劇。つまり、欧州を中心とする2回の大戦とユダヤ人迫害。そして、イスラエルを中心とした流血の日々の影がいつもつきまとうものである。
 それは昨年末演奏されたN響/デュトワの第8番の「千人の交響曲」でも同じだった。これも見事な演奏であった。従来のユダヤの悲劇が色濃くでていた。
 今でさえ、マーラーはユダヤ人の作曲家として、常にワーグナーやリヒャルトシュトラウスの作品と常に比較しながら語られる。しかし、今宵の都響の演奏はユダヤ人の歴史とのかかわり合いが少ないアジアのオケだからこそできるこうしたシオニズムの影から解放された名演だった。それは楽曲、そのものの美しさで彩られていた。
 マーラーのスコアには既にユダヤの、シオニズムのメロディが色濃くでている。大地の歌はいわゆる欧米の中国メロディが次々と登場するが、それもユダヤ的にフィルターがかかって誕生したものだ。それなのに、欧米の楽団の演奏は、それだけでない日本のオーケストラのマーラー演奏でも、マーラーのスコアの上に、演奏でシオニズムの小節をこれでもかと上塗りする。輪郭をくっきり出すことに固執してきた。
 だから、今宵の都響のマーラー演奏で明らかになった、スコアの美しいピアニシモ、そこでふわっと拡がっていくマーラーの宇宙的な美しさ、普遍の美しさといったことが大編成で奏でられるマーラーの小節とオケの怒鳴り声にかき消されてきた。
 今宵の都響。まるで老境の哲学者が静かに思索するようにマーラーの美しいスコアが提示されるではないか!マーラーの宇宙観や心の揺らぎを叫びではなくピアニシモの中に室内楽的に広がるサウンドで聞かせてくれたではないか!
 都響は見事であった。「大地の歌」では、いつもの欧米のオケのマーラー演奏とおなじくらいに増強された大編成にも関わらず、例えば弦のセクションは見事に透徹された一つの音の美学に向かって全員の方向性が一致し、まるで一人で弾いているような音になる。東京カルテットがその最上級の演奏をするときのような音なのだ。それが、各声部と有機的に絡み轟き合うからスゴい。そこに管楽器、打楽器が丁寧に丁寧に加わっていく。
 インバルと都響のマーラーはもう20年近く前に新宿文化センターの開場何周年かの記念演奏会で8番を聞いただけであるが、全く演奏技術のレベルが違う。見事、まさに見事なのである。

 インバルはイスラエル生まれのマーラーを特にレパートリーとする70代後半の指揮者である。きっとこの老マエストロにとっても都響とのマーラーは特別なものだろう。つまり、彼がポストを持っているフランクすると放送響とでは、ユダヤ人に対する加害者としての、チャコフィルならユダヤ迫害の目撃者、迫害に加わったものとしてのマーラー演奏から避けられない。都響もそうした演奏をしてきたのだろう。ベルティーニやインバルとマーラーのシンフォニーの全曲をそれこそ繰り返し繰り返し演奏してきた。インバルも各オケと演奏してきた。

 そして、何回ものマーラーとの対峙、マーラーの交響曲を透徹する旅路の末に今宵の演奏と出会ったのだ。アジアの日本人の日本文化の影響で育ったメンバーがほとんどの都響と新しい演奏の立ち位置にたどり着いたのだ。フランクフルト放送響ともチェコフィルとも違う新たな立ち位置である。
 都響がアジアでマーラーを多数演奏してきたオケであり、それが、新たなチクルスを目前にして、インバルという人生をかけてマーラーを探求してきた指揮者と出会ったからこそ到達したマーラー像だ。
 アジアの東京でシオニズムの小節をことさらに上塗りするのではなく、音楽家マーラーのスコアから浮かびあがる世界観を大切にした、新しい最上級の演奏だ。きっと世界のマーラー演奏史に大きな影響を与えるであろう。
 マーラーの交響曲に対峙することは、それが音楽を聴く観客にとっても、人生と真正面から向き合うことを求められる。特に「大地の歌」と9番交響曲は死と真正面に向き合わなくてはならない。今回の演奏は、李白を初めとした中国の思想家のアジアの死生観とマーラーが向き合った演奏となっていた。
 我々は死を怖れ避けようと必死にもがくだけでなく、いつか人生の意味を悟り受け入れることをしなくてはいけない。今宵の演奏はそうした思想の高みまで達した演奏だったのだ。
 しかし、今宵の都響とインバルの演奏は全く違う頂きを提示したのだ。繰り返しになるが、それはシオニズムの呪縛から解放されたマーラー演奏の新たな境地である。マーラーのスコアをユダヤ人作曲家という一点に視点をおいて演奏するのではなく、人間グスタフ・マーラーとして彼のスコアに対峙した名演奏なのである。
 驚愕である。2人の独唱者も素晴らしかったことを付け加えておきたい。秋からのマーラーチクルスが本当に楽しみになった。2012年3月29日@サントリーホール
NHK

指揮|カール・ハインツ・シュテフェンス
ピアノ|キム・ソヌク
ウェーバー / 歌劇「魔弾の射手」序曲
ベートーヴェン / ピアノ協奏曲 第3番 ハ短調 作品37
シューマン / 交響曲 第4番 ニ短調 作品120
アンコール モーツアルト/ディヴェルメント

「懐かしい東京文化サウンド」
 サントリーホールができるまで外来オーケストラの最高峰のサウンド空間は東京文化会館だった。今は外来オペラとバレエの最高峰の空間として未だに健在だけれどもオーケストラ単独公演では都響定期などで使われるくらいで頻度は大きく落ちた。それは、この空間の残響が短く豊麗なサウンドに聞こえにくいということもあるのだが、オーケストラの生の音が耳に飛び込んでくるのもそうだ。
 実は昨年サンクトペテルブルグフィルの来日の際、珍しいのだが3つのホールで聞く事になり、特にサントリーホールと比べてここでのサウンドがあまりにも違いすぎるのに愕然とした。今回、都民芸術フェスティバルで20年以上ぶりに東京文化会館でN響をきいた。指揮は、2007年まではベルリンフィルの首席クラリネッと奏者だった人。今宵の音は僕が本当に若い頃にきいた外来オケの音だなあと思った。
 最初の「魔弾の射手」。悪くはないが弦の音がいつもと比べると(NHKホールと比べても)粗く聞こえる。さらに重要な4人のホルン奏者は音がひっくり返ったり自信なさげに主旋律を危なげに演奏する。あれれ、N響〜?と思うくらいだった。しかし、曲の最後には音は豊かになっていく。きっと奏者が出す音をホールに合わせ微調整したのかもしれない。そういえば、昔きいた外来オケもそうだった。コンサートの冒頭とそのあとで違う音が良くするものだった。だから、例えば、オーマンディ指揮のフィラディルフィア交響楽団もゲオルグショルティ指揮のシカゴ交響楽団も印象は後半の曲が強く残っているわけだ。N響もそれからは順調に飛行を続けた。
 シュテフェンスの指揮はもっとこういう音が欲しいと身振りが大きく、オケはそれに十全に答えている感じはしないが、2曲目の協奏曲からはフレーズを大切にしメロディを良く唄わせる演奏になった。ベートーヴェンのピアノ協奏曲3番は、引き締まった演奏が聴かれた。独奏のキムソナクは22歳らしい見事な技術力がある上に、音の粒がきれいにたっていてきれいだった。いたづらに叙情に流されず、むしろぶっきらぼうとも言えるようなフレージングの終わり方で、僕はこの曲を聞く時に若い頃に聞いていたウィルヘルムバックハウスの演奏を思い出したくらいだ。
 今宵のメインはシューマンだった。同じフレーズの繰り返しと変化が繰り返される交響曲のイメージなのだが、そのひとつひとつを大切に演奏する見事なものだった。管弦楽は見事にこの交響曲をプレゼンテーションしてくれた。リズムの楽しさも感じさせてくれさすがN響という演奏。指揮者の力もあるだろうがオーケストラがもっている底力発揮という感じだ。アンコールのモーツアルトのディベルメントは弦楽合奏のみの曲だがここでも美しいN響サウンドを聴かせてくれた。

2012年3月14日@東京文化会館
読売日本交響楽団 名曲シリーズ
指揮:スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ(読売日響桂冠名誉指揮者)
《オール・ベートーヴェン・プログラム》
ベートーヴェン/序曲〈レオノーレ〉第3番 作品72b
ベートーヴェン/交響曲 第4番 変ロ長調 作品60
ベートーヴェン/交響曲 第5番 ハ短調 作品67〈運命〉

「枯れていないスクロヴァサウンド」
 この日S席なのだが、座席は選べなかったので実質1階3列目(当初は1列目だったが空いていたので自主移動)で聴くはめになってしまいオケの粗さが耳に飛び込んで来てしまう。例えば、コンマスのデヴィッドノーランのバイオリンとそれ以外のバイオリン奏者のフレージングの終わりのタイミングが微妙と違ったり、ボーイングが違ったり、そういう音の結果が耳に飛び込んできてしまう。やはり座席は選ばなくてはならないなと思った。
 スクロヴァチェフスキは既に88歳で、何年か前のザールブリュッケンフィルの来日の時に聞いたのだが、イマイチで、N響で聴く機会はことごとく失ってしまっていて、今年もN響で秋には聞けるのだが、今宵はベートーベンだし聞いておこうと思って出かけた。遅れたためレオノーレ以降から聞いた。
 ベートーヴェンの4番交響曲で上述の音が気になってしまった。管楽器の安定性が欠けるときもあった。しかしスクロヴァの演奏は若い。そして、重々しくどっしりとした感じでもない。そして、この愛すべき4番を爽やかに聞かせてくれた。
 運命の交響曲も基本的に同じだった。終楽章にかけて登頂するように音楽は高まっていき特に4楽章は魂の燃焼とも言える高揚感を与えてくれた。
 スクロヴァの音楽は高齢だからと枯れていない。むしろ若々しさを感じたりする。躍動している。面白いなあ。
 

2012年3月12日@東京オペラシティコンサートホール
  

 友人が事務局に入ったのでお祝いで、読売日本交響楽団 2012/13 名曲シリーズの年間会員になりました!まあ、全部はいけそうもありませんが、今のところ以下のものには行く予定。日程が赤字ものものはほぼ確実にいきます。

第549回サントリーホール名曲
5月10日(木) 19:00
指揮=下野竜也
ヴァイオリン=クリストフ・バラーティ
ブラームス:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 作品77
≪下野竜也・ドヴォルザーク交響曲シリーズⅦ≫
ドヴォルザーク:交響曲 第2番 変ロ長調 作品4

第550 回サントリーホール名曲
6月13日(水) 19:00

指揮=ゲルト・アルブレヒト
ピアノ=若林顕
ブラームス:ピアノ協奏曲 第2番 変ロ長調 作品83
ブラームス:交響曲 第1番 ハ短調 作品68

第552回サントリーホール名曲
9月23日(日) 18:00
指揮=スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ

クラリネット=リチャード・ストルツマン
ウェーバー:歌劇「魔弾の射手」序曲
スクロヴァチェフスキ:クラリネット協奏曲(日本初演)
ワーグナー:楽劇「トリスタンとイゾルデ」(デ・フリーヘル編)

第553回サントリーホール名曲
10月18日(木) 19:00
指揮=シルヴァン・カンブルラン
合唱=新国立劇場合唱団
ラヴェル:バレエ音楽「マ・メール・ロワ」(全曲)
ラヴェル:バレエ音楽「ダフニスとクロエ」(全曲)

第554回サントリーホール名曲
11月24日(土) 18:00
指揮=ラファエル・フリューベック・デ・ブルゴス

≪マエストロ・セレクション・ポピュラー作品集≫
グリーグ: 「ペール・ギュント」第1組曲から「朝」「アニトラの踊り」
シューベルト:軍隊行進曲 ニ長調 D.733
ストラヴィンスキー :サーカス・ポルカ
J.シュトラウスII:ワルツ「南国のばら」作品388
シベリウス:悲しきワルツ 作品44-1
ワーグナー:楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」第1幕への前奏曲
チャピ:サルスエラ「人さわがせな娘」前奏曲
アルベニス:「スペイン組曲」から「グラナダ」
ファリャ:「火祭りの踊り」
ヴェルディ:歌劇「椿姫」第3幕への前奏曲
マスカーニ:歌劇「カヴァレリア・ルスティカーナ」間奏曲
ビゼー: 「アルルの女」組曲から「メヌエット」「ファランドール」


第557回サントリーホール名曲
2月12日(火) 19:00
指揮&ヴァイオリン=ライナー・ホーネック
ロッシーニ:歌劇「泥棒かささぎ」序曲
シューベルト:劇音楽「ロザムンデ」から「間奏曲第2番」「バレエ音楽第2番」
ベートーヴェン:ロマンス第2番 へ長調 作品50
ドヴォルザーク:スラブ舞曲 作品72-2
ブラームス:ハンガリー舞曲 第1番
J.シュトラウスII:喜歌劇「こうもり」序曲
J.シュトラウスII:エジプト行進曲 作品335
ヨーゼフ・シュトラウス:ポルカ・マズルカ「遠方から」作品270
J.シュトラウスII:ワルツ「加速度」 作品234
J.シュトラウスII&ヨーゼフ・シュトラウス:ピチカート・ポルカ
ヨーゼフ・シュトラウス:ポルカ・シュネル「休暇旅行で」 作品133
J.シュトラウスII:ワルツ「南国のばら」 作品388
J.シュトラウスII:トリッチ・トラッチ・ポルカ 作品214


第558回サントリーホール名曲
3月18日(月) 19:00
指揮=シルヴァン・カンブルラン

マーラー:交響曲 第6番 イ短調 「悲劇的」

指揮|ジャナンドレア・ノセダ
チェロ|エンリコ・ディンド

ショスタコーヴィチ / チェロ協奏曲 第2番 作品126
ラフマニノフ / 交響曲 第3番 イ短調 作品44

「至福の一夜。N響頂点時代を満喫」
 ノセダは、オペラの来日公演の時に指揮者として聞いている。今までもN響の定期の指揮者に招かれることはあった。しかし、わざわざ聞かなくてもいいやと思ってパスすることが多かった。しかし、昨年、尾高さん、アシュケナージをきいたことや、ここのところのN響の驚異的な演奏をきいて、できるだけ何でも聞いてやろうと思っていた。例えば、今宵のショスタコーヴィッチのチェロ協奏曲2番。20年以上前に1番の協奏曲をロストロポーヴィッチと小澤征爾/新日本フィルで聞いて、面白いなあと思ったけれども、その後、いろんなチェリストで聞いても何かつまらなかった。ましてや2番は…という曲だった。
 ところが、二人のイタリア人は、この音楽から僕でも分かる様に楽想をプレゼンテーションしてくれた。豊かな音楽がそこにはあった。特に不安定な状況をチェロの豊かなメロディで何回も締めくくる感じが、1楽章の終わりの弱音のホルンの魅力、管楽器の砲悦的なアンサンブル…。なるほどなるほどと感じながら聞き入った。ディンドは一つのフレージングの中にある音階の魅力とリズムの魅力を丁寧に情感込めて演奏するから聞く側の集中力がキレない。
 アンコールのバッハの無伴奏ソナタの  も素晴らしかった。
 後半のラフマニノフの3番交響曲。出かける前に予習をしていったのだが、とんでもない。録音ではその魅力はひとつも分からなかった。素晴らしい音楽絵巻がそこにはあった。録音では、このシンフォニーの魅力は収まりきれないだろうなと思いながら聞いた。N響すごいなあ。2012年2月22日@サントリーホール
指揮/アントニ・ヴィット
ピアノ/ 中村紘子

モニューシュコ:歌劇「パリア」序曲
Moniuszko: "Paria" Overture
ショパン:ピアノ協奏曲 第1番 ホ短調 Op.11( ピアノ:中村紘子)
Chopin: Piano Concerto No.1 in E minor, Op.11
ベートーヴェン:交響曲第5番「運命」
Beethoven: Symphony No.5 in C minor Op.67

アンコール
ブラームス/ハンガリー舞曲5番 プロコフィエフ/古典交響曲第3楽章
ルトスワフスキ/小組曲からポルカ 


「大時代がかった演奏も時にはいいものだ」
 ワルシャワフィルは10年以上前にこのヴィットの指揮で確か北とぴあで聞いた事があって、何を聞いたのかも覚えていないけれどもいい印象はなかった。また、ワルシャワでも一度聞いた事があると思う。いづれにせよ、10年ぶりくらいに聴くオーケストラである。今宵出かけた理由は中村紘子の協奏曲を20数年ぶりに聞いてみたくなったからだ。彼女は一昨年あたりでデビュー何周年かとかで大きなコンサートを精力的に開いたりしているが、最近の日本のクラシック音楽会は、20代前半までの若い演奏家が世界的な賞を取って、一気に協奏曲の市場を奪ってしまう。
 若く美貌のある演奏家ばかりになってしまって、40歳以上のソリストの活躍の場所はほぼ壊滅状態である。国内のオケでも日本人ソリストは若く美貌のコンクール覇者ばかりである。中村紘子は20年以上前は女王だった。いろんなオーケストラの定期演奏会のソリストに呼ばれていたものだが、最近は自ら演奏会を主催しないと協奏曲は弾けていないのではないか?まあ、それがマーケットだから仕方ないのだが、僕はそのような状況に目を白黒させてきたわけだ。
 その中村紘子をソリストに迎えてショパンのピアノ協奏曲1番というのだから聞いてみようと思った。中村の演奏で記憶に残っているのは既に25年前の、ソビエト国立管弦楽団、確かスビャトラーノフが指揮だった(調べたら1987年5月24日神奈川県民ホール、グリンカ/ルスランとリュドミラ、序曲 チャイコフスキー/ピアノ協奏曲第1番(P/中村紘子) ショスタコーヴィチ/交響曲第5番)で、ソリストを務め、それが物凄いド派手な演奏だったと記憶している。それ以外は聞いたのかなあ?彼女のリサイタルは行った事がないから。中村のショパンの1番協奏曲を聞くのは始めたのだが、技術の衰えがあるのだろう。時々音の粒が奇麗に聞こえない。オケの伴奏のないところで、テンポを物凄く動かしたり(リタルダントっていうレベルでなく)して色合いをつけようとしているようだった。彼女は技術的にはそれほどでない、遅いテンポのピアニシモなどは年齢相応の枯れたいい演奏をするのだが、派手なところでオケと張り合ったりするから、破綻ギリギリまで追い込まれてしまう。女の性を感じた演奏だった。もう一度言うけれども、彼女はネスカフェなどテレビコマーシャルも山ほど出ていた日本ピアノ界のスターであり、女王であったからね。
 まあ、そこそこのショパンの協奏曲。でも、今宵の拾い物、驚いたのは、オケ自身だった。時々管楽器がバランスを崩すくらいがなり立てる音を立てたりしたのだが、おおむね素晴らしい「合奏」で、このヴィットという老指揮者をオケが敬愛し、集中して音楽に取り組んでいるのが良くわかる。素晴らしいアンサンブルだ。
 運命の交響曲などでは、時にロマンチックすぎる音を奏でるし、大音量で迫ってきたりもして、何か1960年代前の大指揮者時代の演奏を聴いているようだった。そうレコードでしか聞いたことのない演奏なのだ。現代のクールな演奏とは全く別の時代がかった演奏だが、時にはこれもいいもんだなあと思った。こういう演奏が少なくなったから稀少です。
 ルトワフスキ。アンコールで出て来て聞き入ってしまった。こんなにすぐにまた聞けるとは思っていなかった。いい作曲家だなあ。
 今宵は久しぶりに最安値の4000円というチケットを手に入れて聞きにいったのだが、結構ガラガラだったので、誰も座っていない3階正面席で聞いた。その席が音のバランスや響きがとても良くて気に入ってしまった。オペラシティのコンサートホールは3階もいいね。
 2012年2月21日@東京オペラシティ タケミツメモリアルホール
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