佐藤治彦のパフォーミングアーツ批評 音楽 忍者ブログ
自ら演劇の台本を書き、さまざまな種類のパフォーミングアーツを自腹で行き続ける佐藤治彦が気になった作品について取り上げるコメンタリーノート、エッセイ。テレビ番組や映画も取り上げます。タイトルに批評とありますが、本人は演劇や音楽の評論家ではありません。個人の感想や思ったこと、エッセイと思って読んで頂ければ幸いです。
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ルドルフ・ブッフビンダー[ピアノ]

リサイタル
ベートーヴェン/ ピアノ・ソナタ第8番 ハ短調 作品13 「悲愴」
ピアノ・ソナタ第23番 ヘ短調 作品57 「熱情」
シューマン/交響的練習曲 作品13

アンコール
シューベルト/即興曲、
J.シュトラウスII=グリュンフェルト/ウィーンの夜会(喜歌劇《こうもり》等のワルツ主題による演奏会用パラフレーズ)



協奏曲《ブラームス:ピアノ協奏曲全曲演奏会》
クリスティアン・アルミンク[指揮]
新日本フィルハーモニー交響楽団[管弦楽]
曲 目 ブラームス/ ピアノ協奏曲第1番 ニ短調 作品15
ピアノ協奏曲第2番 変ロ長調 作品83

「ポリーニとは別の、オーストリア系の、しかし現代的な」
 11年前にブレンデルのリサイタルを初台のコンサートホールできいた。もちろんそれ以降もピアノのリサイタルは聞いてきたのだけれども、どうもぽっかり抜け落ちていた穴を埋めてくれたようなコンサートだった。
 例えばベートベンのピアノを誰で聞いて来たのかと考えると、バックハウスやグルダ、ゼルキン、ケンプ といった人達で、ホロヴィッツでも、ミケランジェリでもなかった。オーストリア系のピアニストとだった。ギレリスなんかも良かったけれども、これらの系譜として扱って良いのだろうと思う。
 1980年代となってこれらのピアニストが一線から退いたあとにフォーカスされたのがブレンデル(クロアチア出身)である。ところが彼は、3回もベートーベンのソナタの全集を録音しているのに、彼のシューベルトと比較するとその演奏は注目されなかったと思う。それは、バックハウスからの流れのそれだからかもしれない。ブレンデルもバックハウスらの巨匠と比べると、単なる良いピアニストでしかなかったのだ。一方で、そこに登場したのがポリーニで、彼がベートーヴェンに切り込んで来たのが80年代からだと思う。もう20年以上前だと思うのだが、彼の「熱情」ソナタをで生で聞いた時にこれは別物だと思ったものだ。
 そして、大きな支持を得ていくのである。ブレンデルの生演奏も聞くのはシューベルトが多かったと記憶している。オーストリア系のピアニストといえば、イエルクデムスなんかもいたわけだけれど、何かトップピアニストの系譜に切り込んでこなかったし、内田光子は、その系譜のはずなんだけれども、もっと独自の世界。
 何をいいたいかというと、ベートヴェンでさえもポリーニ的な世界に引き込まれていったのだ。デジタル時代に、ベートーヴェンの王道でさえもポリーニへ聴衆は支持を与えたということだ。
 それはイタリア的というか、光沢感のある音の粒が立っている音が光を放つ演奏なのだ。美しさが際立つ、誰にでも分かりやすいセクシーな演奏だ。まるでルネサンスの彫刻のようなのだ。それとは対極のオーストリア系のピアニズムの演奏は11年前にブレンデルの演奏をきいていらい遠ざかっていた。
 しかし、今宵きいておもった。やはり王道はこちらなのである。
 昨年末にきいたオピッツに懐かしさを感じたのも、その抜け落ちた何かを埋めてくれる存在だったからかもしれない。今宵、ベートーベンとシューマンの演奏をきいて、それを確信した。そして、ブッフビンダーはブレンデル引退後、きっとチラシなどの広告にあるようにウィーンの香りを運んで来てくれるオーストリア系演奏家の頂点のひとりであるということだ。
 音の粒というよりもパッセージや構成で勝負する。ところがブッフビンダーはブレンデルなどとも違う意味合いがある。それは、オーストリア系なのだけれどもとても現代的なのだ。例えば、悲愴の冒頭のゆっくりとしたテンポがプレストに映ったとたん景色は一変するのだが、その切り替えのギアチェンジが見事で、聞いている方が飽きない。デジタル時代のウィーンの演奏といっていいものだった。
 それは熱情ソナタでも遺憾なくはっきされ、楽章ごとに周到に考えられた飽きさせないピアニズムであった。そう考えてみるとブレンデルの演奏には、時おりどこか学究肌の、こうあるべきてきな匂いがしたものだが、それが彼には全くないのだ。後半のシューマンで、ああこのピアニストは続けて聞く価値のある存在だなあと強く思わせてくれた。
 そこでも、ポリーニ的なものとは明らかに何か別の世界のピアニズムを築いている。それが、少し時代に取り残されそうになったウィーンの、オーストリアのピアニストの反撃のようで面白かった。(6月16日)

 「協奏曲を聴く楽しみ」

 新日本フィルはかつて長いこと定期会員だったのだが、この10年近くはすっかりご無沙汰だ。昨年、チッコリーニにモーツアルトのコンチェルトと共演するのを久々に聞いたが、本当に粗くてひどい演奏だったので、正解だったなと思ったくらいだ。2003年からアルミンクがシェフになってから、一度も聞いていないことに気がついた。そして、来シーズンで退任が決まっているアルミンクを初めてきいた。アルミンクはオーケストラに、とにかく節をつける。無理矢理唄わせるという感じなのだ。聞きながら、ああやり過ぎ、ああ、品格ある日本人って本読ませろ、みたいに突っ込みをいれていた。オーストリア人だが。
 オーケストラはチッコリーニの時と比べると別の団体かと思うくらいに素晴らしいハーモニーを聞かせていた。弦のセクションも、例えば2番コンチェルトの3楽章アンダンテの冒頭の響きなど極上もの。チェロなどソロも素晴らしい。サイトウキネンかよ、と思うくらいにお互いの響きが聞こえていて、共振し美しいハーモニーが届く。ところが、4楽章に入ってフィナーレに近づいて、テンポが早く、高音なども出て、強音を求めるところになると、とたんにそのアンサンブルは落ちてしまう。アルミンクの要望に応えて意識がアルミンクに行き過ぎると、お互いの音は聞こえなくなり、合奏力は落ちてしまう。ううううーーーん、残念。
 1番コンチェルトでの管楽器のアンサンブルの聞かせどころの部分など、素晴らしい音で吹いているのに、フレーズの締め方が女々しく下品になっているのは、アルミンクの指示と見た。なぜなら、全体にそういうトーンだったから。
 アルミンクは、これぞアルミンクのブラームスという痕跡を残そうと必死になっているように思えて仕方がない。それよりは大ブラームスの前にひざまづいて、スコアに書いてあることを忠実に、オケの合奏力を極限まで高めることだけに集中した方がどれだけいいのかと思ってしまう。
 なぜなら、こうして痕跡を残そうと必死になるオケに対し、ブッフビンダーは、土曜日にきいたリサイタルと同じく、中庸の徳を行くのである。嫌らしい痕跡は何もない。ただ音楽を素直に弾く。ひとつひとつのフレージングを大切にし、内面から沸き起こってくる感情に忠実に弾く。オーストリアの演奏家としての王道を行きつつも少し輪郭をはっきりさせることを意識したという感じだ。
 しかし、これらも老成VS若さの競演と思えばいいものかもしれない。少なくとも協奏曲を聴く楽しみをドカーーーンと与えてくれた。先日の若林さんに聞いてもらいたいピアノだった。2012年6月19日


2012年6月16日&19日@すみだトリフォニーホール
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指揮;エドデワールト
チェロ;ポールワトキンス

シューマン;チェロ協奏曲 イ短調 Op.129
マーラー;交響曲第5番 嬰ハ短調
2012年6月18日@東京文化会館大ホール


エルガー:チェロ協奏曲
マーラー:交響曲 第1番「巨人」
2012年6月20日@すみだトリフォニーホール



「ピリオド奏法の効果が」
 チェロの魅力をすごく感じた。チェロをあまり動かさずに骨太な演奏をする魅力的だ。さて、ベルギーを代表するオーケストラだという。それなりに見事な演奏をする。このオーケストラを聞いていて思ったのが、ものすごくピッチがあうということだ。音程もものすごくいい。なんでだろうと思ったら、このオーケストラはピリオド奏法をやっていたからだと思った。
 でもね、今や日本のオーケストラのレベルが高いのでわざわざ呼ぶ必要もないようなあとも思った。

ウラディミールアシュケナージ指揮
NHK交響楽団 定期演奏会


「アシュケナージ的なものに必要なこと」
 ピアニスト時代のアシュケナージにも思ったのだけれど中庸の徳をこの人は行こうとしているのは良くわかる。それはとても正しい路線なのである。感情が高ぶってもそれは内面で起こるのであって、決して音にそれをぶつけない。品格のある演奏になる。アシュケナージの演奏を聴いていて驚いたことは一度もない。それはがっかりする事も、へぇ、この音楽はこういう側面があるんだと思うこともない。
 それでこの厳しい音楽業界に生き残るのは至難の業なのである。
 昨年のちょっと変わったプログラムの時に、久しぶりにアシュケナージの指揮の演奏をきいて思ったのは、この人は老成すればするほど味が出るんだろうなと思ったことと、N響はアシュケナージとどこまで付き合う気があるのだろうと思ったことなのだ。いまやN響はアシュケナージから、学ぶ事はほとんどないのではないだろうか?それが演奏の緊張感のなさに現れてしまうようではいけないのだと思う。
 アシュケナージは中庸の徳の演奏を極めるのであれば、他の月では聞けないようなピッチのあった弦のセクションとか、立ち上がりのいいホーンセクションの音にこだわって欲しいのだ。合奏の極みをN響から引き出してくれないと、アシュケナージ的なもので行くのであれば、それがないと、いけないと思う。
 だから、今月の定期ではソリストがすべてをかっさらっていった。
 バルトークの2番コンチェルトは、空気や色合いの変化までこだわった演奏で、そこにブーレーズも認めるパウゼという稀代のピアニストが非常に現代の息吹のある鋭利な演奏をのっけた。もっとN響も尖って良いはずなのに、アシュケナージはそういう方向にはいかない。
 パボラークは現代最高のホルン吹きだということは良くわかった。N響もいい演奏をするのだが、彼の持つ飛び抜けた技術の前には、いい演奏であって、惚れ込む演奏とならない。
 アシュケナージはこれから演奏家としてどこに向かうのであろうか?来年は定期に登場しないのだが、さて、次があるのだろうか?と思ってしまう。



A定期
リムスキー・コルサコフ / 組曲「サルタン皇帝の物語」作品57
グリエール / ホルン協奏曲 変ロ長調 作品91(1950)
チャイコフスキー / 交響曲 第4番 ヘ短調 作品36
ホルン/ラデク・バボラーク
2012年6月10日@NHKホール



C定期
コダーイ / ガランタ舞曲
バルトーク / ピアノ協奏曲 第2番
R.シュトラウス / 交響詩「ツァラトゥストラはこう語った」作品30
ピアノ/ジャン・エフラム・バヴゼ

2012年6月15日@NHKホール
指揮 ゲルトアルブレヒト
ピアノ 若林顕
ブラームス ピアノ協奏曲第2番/交響曲第1番




「老齢な指揮者への移行について」

 読売日本交響楽団はいつのまにか一流のオーケストラになっていた。これは続けて聞く価値があると今年初めて定期会員になった。もちろん実際に会場に足を運べるのは半分くらいなのであるけれども。
 今宵の演奏会も全体としては極めてレベルの高い満足すべきものであった。
 これは、ウィーンフィルやシカゴ響を聞くのと同じものを求めていいのだと思って書く感想。
 
 今宵はかつての音楽監督であり、日本でも高い評価を得ているゲルトアルブレヒトである。曲目もブラームスプロ。
 1曲目のブラームスのピアノ協奏曲。ソリストは日本を代表するピアニストのひとりの若林。中堅のピアニストである。世界的なコンクールでも上位入賞した逸材である。しかし、天下のブラームスのピアノ協奏曲。私はこのピアニストの強みと弱みが如実に出てしまった演奏だと思った。
 ひとつひとつのパッセージを聞くとそれは美しい。私はこの中堅のピアニストに
録音で何百回もきいたバックハウスのような、もしくは実演できいたルドルフゼルキンのような演奏を求めているわけではない。しかし、私は思ったのだ。技術的には世界の超一流のピアニストまで上り詰めたと言っても、おかしくないこのピアニストが、基本的には日本国内のローカルピアニストで留まっている理由はどこにあるのだろうかということだ。私が心を動かされてきたピアニストと比べると、何か若林としての重しがない。若林流のピアニズムを感じないのだ。もっと違う表現をすると、この大曲に向かう姿勢が定まっていないのである。ある部分はバックハウス的だったり、ある部分はポリーニ的だったり、何か揺らぐのである。フォルテとピアニシモ、速いパッセージと叙情的な部分と何かつながっていないのである。そう聞こえてしまうのだ。きっと若林は勉強家でいろんなピアニストの名演も聞いたのではないか、どうも、そのつぎはぎに聞こえてしまう。僕は、ランランというピアニストがあまり好きでない。しかし、彼が受ける理由は分かる。自らのピアニズムが確立されている。それは、きっとこれから年を重ねていくうちに変わっていくのだろうけれども、少なくとも現時点のランラン流のピアニズムがあるのである。
 それが若林には感じられない。技術も部分的もいいけれど、全体をきくと、で、あなたはこの大曲に対してどう立ち向かったのかが見えて来ないのである。
 だから、例えば2楽章の冒頭のパッセージが決まって聞こえないのだ。
若林がひとつのパッセージが終わると頻繁に座り直し、燕尾服の尻尾の部分を直しているのが彼の音楽を象徴しているようだった。
 オーケストラは素晴らしかった。
 3楽章のチェロのソロの美しかったこと、それがバイオリンに引き継がれていくところのブリッジ部分など日本のオケかと思うばかりだった。
 アルブレヒトは96年にハンブルグオペラの来日で、確か「タンホイザー」を聞いて以来の実演である。16年ぶりということで、相当齢を重ねた感がある。私たちはこのベテランだけれども、決して大スターでない指揮者に何を求めるのであろうか?私は、ヘンテコな表現だけれどもドイツ流でないものを見つけ出し正していく検察官、ドイツ警察のような役割を期待する。アルブレヒトはアルブレヒトならではの強い芸術的個性を持ち合わせるというよりも、ドイツ=オーストリア芸術の伝統の流れの中で語られる指揮者であろう。そこに、カルロスクライバーが演奏したような個性を求めているわけではない。
 ブラームスの作曲したスコアの美しいハーモニーがきちんと表現されているか、オーケストラの息づかいがひとつになり動いていくか、それがドイツ的であるかを見てもらいたいと思っているのだろう。
 結果もその流れである。音質などは非常にドイツ的でさすがにアルブレヒトだなあと思った。けれども、小さなミスやキズが散見されるのである。例えば、バイオリンの高音部の強音になると音が汚くわめく感じに成ってしまう。出だしが揃わなかったり、例えば、4楽章のフルートソロの音量がでか過ぎてバランスを崩すといったこと、4楽章もあの有名なテーマが感動の極みのようなハーモニーを奏でたのに、管のセクションの音量がやはり大きすぎるといった具合。
 このような老齢の指揮者の演奏の場合、例えば晩年のカールベームの指揮のように、もう肉体を使ったものでも何でもない、いるだけの指揮でいいのである。それは、共演を重ねたオーケストラが自発的に、指揮者の意図を自ら読み解いて作り上げていく音楽でいいのだ。アルブレヒトはそこに気がついていない。老人の指揮者としての移行が終わっていないのだ。だから、オーケストラがアルブレヒトの指示によって演奏するという部分が残りすぎているのだ。アルブレヒトが、ダメだし出来なかった、本当は気がつかなくてはいけない、バランスとか音色とか、大きなところでキズが残ってしまうのだ。
 この歳なのだから、オーケストラの全てを統率すべきでない、それはノーランほか名うての演奏家が自らやればいいのであって、ただ、アルブレヒトは、座って指揮棒をあげて、自分の求めるものでない演奏をした連中を見てやればいいのだ。そういう指揮をするようになれば、アルブレヒトの指揮する演奏はもっと面白くなるだろう。若い頃の細かいところまで全部自分で見るというよりも、そういうことはできないよと自ら宣言して演奏に望むほうがいいのではないか?
 老成するということの難しさを感じさせてくれた演奏会だった。 2012年6月13日@サントリーホール


リスト:ピアノ協奏曲 第1番 変ホ長調
マーラー:交響曲第5番 嬰ハ短調


パーヴォ・ヤルヴィPaavo Järvi/
アリス=紗良・オット Alice Sara Ott (ピアノ / Piano)
フランクフルト放送交響楽団 Frankfurt Radio Symphony Orchestra

「ジャパンアーツに猛省をうながしたい」

 リストの協奏曲を弾くためにロングドレスを着てアリスが出て来た時に、多くの観客がオット(ダジャレじゃないよ)思ったはずだ。彼女はだしだったのだ。初めてだ。自分のスタイルがそれなんだろうと思ったのだけれども、彼女は何歳まで裸足のまま、人前で演奏するのかなと思った。というのも、彼女の演奏自体が裸なのである。リストの演奏というよりは、若く圧倒的な技術力の自分をだし、あまり考えず、私こんな感じなの!という何か少女のワガママさ、それが少女の魅力でもあるのだが、その延長線上の演奏だったのだ。そういう意味合いでは個性はあるし、客に媚びた演奏でないので面白かったのだが、彼女の容姿以上の魅力がピアノにあったのかというと大きな疑問符を打つ。秋にマゼール/N響で、今度はグリーグの協奏曲を彼女のソロで聞くので、彼女の評価はもう少し待っておこうと思う。
 もう一度いうと、あんまり深く考えない自分流の演奏って言う感じだった。
 マーラーの交響曲は、上手奥にしつらえられた無人カメラが轟音をあげていた。何か音がするなあと思っていたけれども、自分の気のせいなのかと思ったけれど、1階の8列センターで見ていて、あんまりこの辺りで聞かないので、空調の音が聞こえるスポットなのかなと思ったくらいうるさかった。
 ところが2楽章が終わった後に、ホルン奏者が立ち上がりクレームをつけに人を呼んだのだ。そして、カメラのスイッチが切れたとたんに音はやんだ。3楽章はホルンソロの聞かせどころなので動いたのだろうけど、それから演奏が俄然良くなった。会場にはジャパンアーツのトップの人が聞いていた。何であの轟音に対して何も動かなかったのか分からない。アーチストにも客にも失礼だろう。猛省を促したい。主催者として最低限やるべきことをやっていなかった。
2012年6月6日@サントリーホール
ドビュッシー / バレエ音楽「カンマ」
ドビュッシー / サクソフォンとオーケストラのための狂詩曲
ラヴェル / 亡き王女のためのパヴァーヌ
ドビュッシー (C.マシューズ編) / 前奏曲集 第1巻から「パックの踊り」「ミンストレル」第2巻から「水の精」「花火」[日本初演]
ドビュッシー(アンセルメ編) / 古代のエピグラフ
ラヴェル / バレエ音楽「ラ・ヴァルス」
指揮/準・メルクル
アルト・サクソフォン/須川展也


「準メルクルのフランスものについて。デュトワと比較して」

 現在世界でフランスものの圧倒的な評価を得ている指揮者といったら誰だろうか?いろいろといい人がいるだろうけれど、先ずはデュトワは挙がっていい。そして、長老で実はドイツものが得意だったりするジョルジュプレートル、すみだトリフォニーホールで3日間のラベルの演奏会が素晴らしかった、しかし、ガラガラというかほとんど客がいなかった、マイケルプラッソン。90年代にはリヨン管と来日してパリ管よりも魅力的だぜと思わせてくれたエマニュエルクリヴィヌがあがってくる。 
 しかし、日本のオケでということになると、やはりデュトワである。80年代にN響との初顔合わせの頃に聞いた「ファウストの刧罰」!に始まって、さまざまな演奏を聴かせて来てくれた。ちょっと幻想交響曲が多すぎる感じがするけれども。
 
 今日の準メルクル。素晴らしかった。ドビッシーのあまり演奏されない曲が多かった事もあるけれども、本当に良かった。休憩の時に、ロビーで「私はサクソフォンの音色が嫌いでね」などとクソったれな感想を述べている親父をどやしつけたかったくらいだ。感想は人に聞こえないようにやってくれ!と。なぜならその曲も素晴らしかったから!
 でも、デュトワのそれと違うなあと思いつつ、例えが良くないかもしれないが、こう思った。デュトワの演奏がマグリット的なシュールリアリズム的なくっきりはっきり系の音色で埋め尽くされるのに対して、準メルクルのフランスものは、印象派。それもマネの演奏のような感じがした。音色には濃淡があり、聞き込めばいろんな魅力的な音で埋め尽くされているが、ちゃんとハイライトされるメロディやリズムがある。
 浮世絵というより、その先の水墨画の淡い魅力のある音色であるのだ。フランス人の音楽へのこだわりのいい部分が出ていて、と思った。そして、いつものようにN響は世界的になったなあ、今日の演奏なんかベルリンフィルやウィーンフィルと、、、いや、違う。この演奏はN響だから出せる音色だと思った。ベルリンフィル/カラヤンのフランスものの魅力もあるし、デュトワがモントリオールを初めとして演奏して来たそれもあるだろう。もちろん、プラッソンなどのフランスものの名演もあるのだけれども、今宵の演奏は、19世紀から20世紀のフランスの芸術家たちが、愛した日本の絵画、浮世絵に影響された芸術家たちが産み出した芸術を日本人の演奏家のところに一周して戻って来たら、さらにハイな、素晴らしい演奏になりました!という奇蹟の名演ということが言えるのではないか。。。
 オケの音は拡がったかと思うと食虫植物に触った時にのように、キュっと戻ってくる。テンポは品よく揺れ、弦のピッチは揃い艶やか、木管がそこにゴッホのような力強いラインを一気に書き込んだかと思うと、それは打楽器も担っていて、紙の上に乗った砂が振動で揺れるような、音の色彩が花火のように舞う縁取りをしていた。
 もはや、ベルリンフィル、ウィーンフィル、シカゴ響、アムステルダムコンセルトヘボウといった世界のトップオケの機能を持ったN響は、いまそこにオケの個性までもが宿りつつあると感じたのである。欧米のオケではなく、アジア的な感性の西洋音楽の演奏団体として、サイトウキネンオケが合奏の機能美を披露したけれども、もっとアジア的な良さが前面に出た印象だ。
 ウソだと思ったら31日の演奏を聴いてもらいたい。
 僕は今日の最後の「ラヴァルス」の音色をきいて震えてしまって、涙が止まらなくて、今までにも何回も感謝したけれども、たった1回の人生で音楽を聴く人間になれたこと、それも、こういう素晴らしい演奏会を選べてそこにいられる幸せを心から感謝した。1億2千万からいる日本人でこの会場にいられるのは2000人程度である。奇蹟としかいいようがない。

2012年5月30日@サントリーホール
近藤嘉宏ピアノリサイタルシリーズ Vol.1
「ピアノの詩人と巨人 ショパン&ラフマニノフ」ラフマニノフ
ヴォカリーズ Op.34-14
前奏曲 嬰ハ短調 Op.3-2「鐘」
ショパン
舟歌 Op.60
スケルツォ 第2番 変ロ短調 Op.31
ショパン
エチュード 変イ長調 Op.25-1「エオリアンハープ」
エチュード ハ短調 Op.10-12「革命」
エチュード ホ長調 Op.10-3「別れの曲」
エチュード 嬰ハ短調 Op.10-4
ラフマニノフ
楽興の時 Op.16(全6曲)




「ラフマニノフ、ラフマニノフ、ラフマニノフ」
 日本のピアニストはどうやって生きているんだろうと思っていた。リサイタルで1万円以上のチケット代の取れる日本のピアニストは内田光子しかいない。あとはしばらくは辻井さんもそうなんだろうけれど、今はそんなに高くないし、あの消費のされ方は大成するピアニストの行く道とは思えない。ランランや、ユンディリーのような中国人ピアニストにまで世界中のマーケットを抑えられている。国内のオーケストラの協奏曲にも入り込む余地がどんどんなくなってきている。例えば国内でも来日オケでも演奏会にソリストとして呼ばれ、協奏曲を聞かせてもらって、アンコールでソロのピースをやって、じゃあリサイタルも行ってみようというのが新規顧客の有効な獲得方法だと思うのだけれども、日本人のピアニストは若手の一部を除いてどんどんはじかれている。特に、来日系は招聘事務所に所属するか、よほど関係の深い日本人ピアニストでないと呼ばれないから。
 そして、日本のオケのソリストとして呼ばれる場合は、集客力をやはり問われる。話題性が必要ということか。10年前なら頻繁に呼ばれていたピアニストでもほとんど呼ばれないという人が多い。

 近藤さんは、たまたまツイッターをフォローし合って、何枚かのCDを聞かせてもらって、ああ、良いピアニストだなと思って生演奏を聴きたくていた。日本人のピアニストのリサイタルは内田光子をのぞくと、20年ぶりくらいではないか?その前は大阪のフェスティバルホールできいた横山幸雄さん。
 あ、熊本マリさんに招待してもらって聞いた事もあったか。それにしても10年は聞いてない。
 この日の演奏会は表参道にあるカワイ楽器のサロンで行なわれた。演奏会場の音響は普段聞いているコンサートホールの音響と違いデッドな音響である。それでなくても空間の容積が少いので音が広がらない。大変難しい会場だ。
 近藤さんのショパンの演奏はCDで聞く分には良かった。下手な媚がまったくなく淡々と弾く。ショパンは分かりやすくいうと甘ったるい演奏をするとダメなのだ。バレエでなく床運動みたいな演奏の方が断然いいのだ。それを日本のピアニストはテンポを動かして遅めにしたり、変なところでテヌートをかけたりする。音にメチャクチャ思いを込めたりもする。要らないクレッシェンドやピアニシモ。ゲンナリだ。それが近藤さんのCDにはなかった。ああ、良い演奏だと思って聞きにいった。が、あのデッドな音響空間に負けたのか、今日のライブではずいぶん甘く演奏していたように思う。テンポを動かしすぎだ。それも内面から出たものと言うよりも、音楽に化粧をした感じでフレーズを決めていく。
 ああいう演奏は、指は動くけれども音楽の分かってない学生やピアノ愛好家に特に多い。会場の事を考えてそういう演奏にしたのだろうが、CDでちゃんとした一流の演奏を残しているのに、みっともない。クラシック音楽においては、客を楽しませようとしたとたん音楽の質が落ちる。演奏家は、スコアと対峙してくれればいいのだ。そして、あのデッドな音響空間でやっているのだから、普段コンサートホールできけない、まるで自宅のホールの音響とは別種の空間で弾くようなときのショパンを聴かせてくれればいいだけなのにな、と思った。
 その点、ラフマニノフは良かった。難曲ということもあるのか、もしくは、ショパンほどには弾いていないからか、本人もものすごく集中し好演。ショパンで客にサービスした分、音楽に集中していた。きっとこの曲を普段のコンサートホールできくと、これだけ音の粒をむき出しにして聞く事はできないだろう。音は混ざり合い影響し合うだろう。それがない楽しみがあった。化粧していない美少女を見た感じだった。繰り返しになるが、こういう会場で聞く楽しみはあるものなのだ。あと、演奏の前後などに話さない方がいい。音楽だけで勝負して欲しい。男を下げてる。最後に、お客さん同士の多くが知り合いで、挨拶しあってる。まるで同窓会というか、小劇場のロビーのようだった。2012年5月24日(木) 19:00開演( 18:30開場)
会場:カワイ表参道コンサートサロン「パウゼ 」

武満 徹 /フロム・ミー・フローズ・ホワット・ユー・コール・タイム(1990)*
バーバー / 弦楽のためのアダージョ
バーンスタイン/ 交響曲 第1番「エレミア」**

指揮:広上淳一
パーカッション:I.竹島 悟史、II.植松 透、III.石川達也、IV.西久保友広、V.村居 勲*
メゾ・ソプラノ/ラヘル・フレンケル**

「現代音楽を聴く楽しみに溢れた演奏会」
 武満徹の曲は1990年ごろにサントリーホールで聞いて以来22年ぶりに聞いた。あれは、おそらく小沢/新日本フィルか、指揮は佐渡裕だったかもしれない。興味深い曲ではなかったのに、今回のこの緊張感は果たしてあっただろうか?いや自分が現代の楽曲に向き合うことができるようになったのかもしれない。初めて聞いた広上は楽団の自主性を最大限に尊重しながらまとめていくのだ。それは、バーンスタインに至るまで徹底されていた。そして、それは成功したのだ。少しオーバージェスチャーだし、楽団に対してOKを出す顔つきがマフィアみたいであるが。2012年5月18日@NHKホール

指揮/尾高忠明 
ピアノ/ギャリック・オールソン メゾ・ソプラノ/加納悦子*
バリトン/三原 剛* 合唱/新国立劇場合唱団*


オネゲル ; 交響詩「夏の牧歌」
ショパン ; ピアノ協奏曲 第2番 へ短調 作品21
デュリュフレ / レクイエム 作品9*

「尾高忠明は緻密で知的である」
 デュリュフレのレクイエムは、フォーレのレクイエムにも似た音楽であるが作曲されたのが第二次世界大戦後ということもあって、無常観漂う曲である。「戦争レクイエム」のように直接的な絶望を前面に出さないが、あくまでも鎮魂歌として哀しみを歌い上げている。この曲がほとんど演奏されないのが不思議なくらいである。尾高はこの曲と適度な距離を取りながら、細部にわたってきちんと客席に届ける。曲に全てを語らせ自ら足したり引いたりしない。新国立劇場合唱団や独唱者も非常に高い水準で演奏してくれた。
 オネゲルの次に演奏されたショパンのピアノ協奏曲では64才のアメリカのピアニストで、初のショパンコンクール勝者のオールソンは感傷に浸ることは無く淡々と弾きあげる。ショパンらしい演奏ではない。それなのに、そこにマズルカのリズムが浮き上がってくる。ショパンというよりもピアノの魅力が発揮された演奏だった。2012年5月12日@NHKホール



ショパン:ピアノ協奏曲第1番、第2番。
山下一史指揮 シンフォニアヴァルソヴィアメンバー
2012年5月7日@サントリーホール


ショパン: ピアノ・ソナタ第2番 変ロ短調 op.35 「葬送」
リスト: メフィスト・ワルツ第1番 S.514
ショパン: ノクターン ハ短調 op.48-1
リスト: ピアノ・ソナタ ロ短調 S.178
2012年5月9日 @サントリーホール → 演奏会に行くのをキャンセル


「狂気の世界にいってしまったピアニスト」
 恐ろしく空席が目立つサントリーホールに、狂気の顔をしたピアニストがショパンのふたつの協奏曲らしきものを弾いた。しかし、それはショパンではない。
 おそらく彼の演奏をきく最後の機会になるだろう。
 イーヴォボゴレリッチは少なくとも自分の狂気の沙汰まで彷徨って音楽作りをした勇者だった。ただ、今回明らかになったのは、あっちに行ってしまったことだ。あれは狂人の音楽だ。狂人、元天才。天才と狂人は紙一重とは本当だった。
 イーヴォボゴレリッチへのショパンコンクールでの評価=アルゲリッチの言った事は正しかった。
 今宵きいたショパンの2番協奏曲はたった2年前にボゴ自身で聞いたばかりだ。
 それが、もっと壊れ狂っていた。
 しかし、その2楽章の最後の一音の美しいこと。
時おり、聞こえる音色は、その瞬間の後すぐに狂気の世界に戻っていくのだけれども、その瞬間だけは、美の極地でもあった。狂気の世界では成立している音楽なのかもしれないが、とても聞けたものではない。
 3楽章の左手のあのリズムはなんなのだ。変なアクセント、異様で揺れるテンポ設定。

 イーヴォボゴレリッチが日本にデビューした頃、それは風変わりなコンサートだった。事実婚か夫婦だったのかはしれないが、アリスケセラーゼという女性とのジョイントコンサートだった。
 彼女はイーヴォを指導していたという。小太りでの中年の醜い女だった。
彼女はイーヴォをこっちの世界に止めようときっと綱を緩めたり締めたりしていたんだと、今なら確信する。
 10年くらい前までは、イーヴォの音楽は普通の一流の演奏家の音楽で、その狂気は滲み出てくるくらいだったから。それぐらいが聴衆にとってはありがたいのだ。自分の心と感性の中で鳴り響いていたのを思い出す。北島マヤ=「ガラスの仮面」の奏でる音楽が。

 その女は早くしてこの世を去った。
 イーヴォの崩壊はそこから始まった。リミッターが壊れたのだ。
 小太りの調教師がいなくなったイーヴォの叫ぶ声が聞こえる。
 「ケセラーゼ、俺はお前が必要だったのに。俺の音楽はお前と二人で完成されていたのに。このフレージング、このテヌート、やりすぎか、足りないのか、方向性が違うのか。いいのか悪いのか、もはや俺には判断がつかぬ…。何でお前だけいなくなったのだ」
 音楽家として、イーヴォとケセラーゼは漫才師のようにコンビで成立していたのかもしれない。いや違うか。美空ひばりとその母のようにと言い直そう。

 僕はもうイーヴォの生演奏は聞きません。
 過去30年近く、面白い演奏をありがとう。
 ただ、これからも、あなたが現にいた頃の、例えば、スカルラッティの録音を僕は聞き続けるでしょう。でも、
 物理的にあなたはまだいるのだから、いつでも現世にお越し下さい。
 サントリーホールや文化会館のロビーで
 亡霊の噂が囁かれたら僕はにやりとするでしょう。
 ハムレット第一幕が始まった!
 あの方が、彼岸からこちらに戻って来られた!。
 
 イーヴォは狂ってしまったが、踏みとどまったピアニストがいた。
 スビャトラフリヒテル。
 晩年のリヒテルの音楽は深く深く狂気の世界に近づいていたように思える。
 シューベルトなんか弾くと大変な事になるよ、リヒテル!
 10代の僕はそう思ったものだ。
 コンサートホールを暗闇にし、
 その暗闇の中でスタンドに灯りをともし演奏していた姿。
 きっと楽譜をあえて譜面台の上におくことで、踏みとどまっていたと思う。
 
 音楽家、アーチストは孤独の極地にいるのだ。
2012年5月7日@サントリーホール
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佐藤治彦 Haruhiko SATO
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男性
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演劇ユニット経済とH 主宰
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