佐藤治彦のパフォーミングアーツ批評 音楽 忍者ブログ
自ら演劇の台本を書き、さまざまな種類のパフォーミングアーツを自腹で行き続ける佐藤治彦が気になった作品について取り上げるコメンタリーノート、エッセイ。テレビ番組や映画も取り上げます。タイトルに批評とありますが、本人は演劇や音楽の評論家ではありません。個人の感想や思ったこと、エッセイと思って読んで頂ければ幸いです。
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指揮|ラドミル・エリシュカ

スメタナ / 交響詩「ワレンシュタインの陣営」作品14
ヤナーチェク / シンフォニエッタ
ドヴォルザーク / 交響曲 第6番 ニ長調 作品60

「ラドミル・エリシュカは老成しているが青年だった」
 現在80歳のほぼ無名だったラドミル・エリシュカが日本で注目されたのはこの5年ほどである。私はもちろん初めて聞く人だし、実は人身事故で電車が止まり、2局目の途中からしか聞けなかったのだが、彼がこれほどまで話題になっているのが良くわかった。素晴らしい。N響からこのような無駄な装飾がなく深みのある、でも美しく人生を謳歌している若者の持つポジティブな若く溌剌とした音と造形美。見事なアンサンブルが引き出されたのは脅威だ。あのブロムシュテットをも上回ると言ってもいいかもしれない。
 まだ足腰もしっかりしているので、あと何回か来日してもらえるのだろうか?チェコの音楽もいいが、古典派の音楽もこの指揮者からきちんと聞いてみたい。この指揮者にとってみてもチェコフィルなどの例外を除いて理想的な機能をもった最高峰のオーケストラを振るのは非常に嬉しいものだろうと思う。今回の来日でラドミル・エリシュカは決定的な評価を得ただろう。あとは神が彼にどれだけの時間を与えるかだ。祈ろう。もう一度、いやもう二度三度聞きたいのですと。2012年1月14日@NHKホール


指揮|レナード・スラットキン
ロッシーニ / 歌劇「どろぼうかささぎ」序曲
ルトスワフスキ / チェロ協奏曲(1970)
ショスタコーヴィチ / 交響曲 第10番 ホ短調 作品93
チェロ|ジャン・ギアン・ケラス

「コンサートならではの宝物」
 スラトキンとN響の幸せな組み合わせが帰って来た。1年ほど前にスラトキン来演の発表があったときに心が躍ったのはなぜだろう。10年以上前に来演したときの記憶はほとんど残っていない。しかし、今宵の演奏をきいて自分の期待は間違っていなかったと。ロッシーニの「どろぼうかささぎ」は最近富みに力を増しているN響の美しい弦のセクションであるが、美しさと溌剌な、それも非常に知的でね、コンサートの1曲目。短めの曲が用意されるのは、ディナーのアミューズのようなもの。そして、オーケストラの真の意味でのチューニング的な意味合いがあるはずなのだが、もう最高の料理が出て来た感じ。心の中に美味しいシャンパンが流れ込んで来たみたいだった。
 さて2曲目は1970年に作曲された現代?音楽。もちろん初めて聞く。ルトスワフスキというポーランドの作曲家のチェロ協奏曲。これが素晴らしかった。最初は序奏で始まるのだが、チェロの淡白な音から豊かな音が広がる。曲はロストローポーヴィッチが作曲家に依頼して生みだされたものらしいけれども、その淡白なチェロの音の素晴らしさ。共産主義体制下で生みだされたこの曲は、まるで芸術家の心の叫びとそれが波紋を呼び共鳴を呼んでいくという感じなんだけど、まあ、そういうことは別として純粋な音楽として本当に美しい。一瞬も気持ちを緩められない極度に集中して音楽を聞いていること。自然にそうなる。CDに決して収まりきれない音楽の伽藍がそこにあった。ジャンギランケラスという40代のチェロ奏者は非常にフラットな純粋に音楽に尽くすタイプだと思った。好きな演奏者のタイプだ。
 例えば、ポリーニのシュトックハウゼンの演奏をきくと、面白くてワクワクするが、別に録音で聞きたいとは思わない。そして、この手の音楽は本当に超一流でないと聞けたものではないものでもある。瞬時の音楽的な弛みは許されない。崩壊につながるからだ。いやあ、良かった。
 そして、最後はショスタコーヴィッチの交響曲10番。この作曲家とは距離をおいていたカラヤンも録音した曲だ。が、僕もどんな曲だったのか全く残っていなかった曲。まあ、このN響とスラトキンのような黄金コンビでないと聞きたいと思えない。が、こちらも曲が始まるとホント夢心地。
 このところのN響の定期は僕にとって本当に楽しみなものばかりで、言ってみればNHK交響楽団の定期演奏会を聞く為だけに生きる価値があると思うくらいだ。
2012年1月19日@サントリーホール


NTT東日本 N響コンサート
ブラームス ハイドンの主題による変奏曲作品56a
モーツァルト フルート協奏曲第1番ト長調K.313
ベートーヴェン 交響曲第7番イ長調作品92
フルート:高木 綾子

「ドイツものも抜群だったスラトキン」
 Bプログラムの演奏が余りにも素晴らしかった。Cプロの演奏曲目をみて、何かないなあと思ったのがドイツものの曲目だ。そうしたら、特別演奏会もあるらしいのでそちらにも出かけてみた。この日はアンコールにバッハのG線上のアリアまでやったから、本当にドイツ/オーストリアもので固められた演奏会だった。
 最初のブラームスで変に重たくならないけれども、重厚な木目の味わいで聞かせてくれたアンサンブルは、モーツアルトで軽やかになる。申し訳ないが高木という美人フルーティストの出てくる幕はほとんどなかった。N響のアンサンブルが素晴らしすぎた。軽やかでユーモアに溢れ、そして良く唄った。
 ベートーベンの7番は本当によく演奏する。2009年の9月の定期ではホグウッド、2010年9月の定期ではマリナーと。どちらも良かった。今宵も負けじと良かった。違いはN響のアンサンブルの音の密度がさらに深くなったこと。スゴいです。
 スラトキンとドイツものっていうイメージはなかったけれども、大満足で本当に来てよかったと思う。スラトキンはいったいどこにこだわったんだろう。きっとフレージングやお互いにもっと聞き合うってことじゃないのかな?聞き合わないと作れない音を作ったのではないかしら?と吉田秀和的な終わり方をしてみる。
 そう、僕はごきげんなのだ。
2012年1月23日(月)@東京オペラシティコンサートホール タケミツメモリアル





ペルト / フラトレス(1977/1991改訂)
バーバー / ヴァイオリン協奏曲 作品14
チャイコフスキー / 交響曲 第6番 ロ短調 作品74「悲愴」
ヴァイオリン|ナージャ・サレルノ・ソネンバーグ

「世界に誇れる名演」
 一度僕の家に来てもらえば分かるが、1980年代の半ばから世界中から来日する一流オーケストラのほぼ全てを聞いて来た。僕が音楽を聴き始めた頃は、まだ巨匠が山ほど生きていた。僕が聞いただけでも、カラヤン、オーマンディ、バーンスタイン、ヨッフム、クーベリック、ジュリーニ、チェリビタッケ、テンシュテット、ショルティ…。アバドやムーティ、クライバーでさえ中堅と言われた時代だった。小澤はまだ若手だったかもしれない。母が上京した頃にN響のハープ奏者、山畑さんに世話になったことがあったらしく、子供の頃からNHK交響楽団の名前をきいていた。高校になり、実際に自分でチケットを買ってコンサートに行き始める。最初にいったのは、小澤征爾/ボストン交響楽団の演奏会。ブラームス。普門館という音響の悪いホールでの演奏だったけれども豊かな弦の合奏に心を震わせたものだ。
 一方高校の友達に誘われて高校二年の時に出かけたのがN響のプロムナードコンサート。小松一彦と小林研一郎の指揮で1回づつ、宮沢明子がショパンの2番コンチェルトをやった事だけを覚えている。がっかりしたのだ。弦は第一バイオリンはキーキーいうし、金管はガンガンひっくり返る。日本で一番のオーケストラかもしれないが、酷いなあと思ったものだ。しばらくして、N響の定期には時おり通いだす。理由は簡単。有名指揮者やソリストの生演奏を聴きたかった。サバリッシュ、シュタイン、ノイマン、コシュラー、スイットナー。プロムナードコンサートで聞くよりは良かったけれど、同時期に聞いていた来日オケの音色とは比べ物に成らなかった。
 それがこの10年で変わった。いや、この数年で格段に良くなった。なぜだかは分からない。千葉馨さんなどの名演奏家はほとんど退団してしまったし、客演する指揮者が急に変わったわけでもない。ホールは同じNHKホールとサントリーホールだ。
 サントリーホールが出来てN響を聞いたとき、サウンドの仕上がりがNHKホールよりも格段に良かったので、嬉しくなったものだが、それでも欧米の超一流どころとは大きな溝があったように思う。

 今宵の演奏を聴いて、今日までのことを思い出していた。なぜなら、今宵の演奏は世界に誇れる名演だと確信するからだ。スラトキンはこのあとソウルフィルでタクトを振るらしいが、どうなんだろう?この日本のオケの素晴らしさを再認識するのではないかと思う。
 現代音楽も組まれたプログラムで、観客の大半は、それは僕も含めて後半のチャイコフスキーを聞きに来たのだと思う。それが一曲目のベルトの「フラトレス」でやられてしまった。打楽器と弦楽器のやり取りで展開する現代のレクイエムだ。そんな曲ではないかもしれないが、この曲には鎮魂する力がある。それを見事な弦楽合奏で、それは昔、初めて東京カルテットを聴いた時の衝撃にも似ている見事なもので、10分間の演奏が終わってしまったとき、もっと聞きたいと思った。生まれて初めてこの演奏を録音したCDを休憩のときに買おうかなと思ったくらい。
 2曲目のバーバーの協奏曲も聞き慣れたものではない。それが何と言う躍動感。ソリストのナージャはその半生の出来事も加わってカリスマ性のある演奏家らしい。まるでロックを演奏するようにノリノリで、ソウルで演奏するのが分かる。それがオケがノリノリで、それも高度な技術に裏打ちされた濃密な音で迫ってくる。ナージャを焚き付ける演奏をするものだから、彼女の顔がどんどん嬉しそうになってくるのが分かる。それは聴衆にも伝わって、なんて素敵な曲を聴いているんだと思わせてくれる。僕はポリーニでシュトックハウゼンを聞いたときに思ったのだけれども、現代の音楽は微妙な響きがとても大切で、それらまでコンサートホールで体験できるような音楽体験をいよいよ録音できない代物だと思っている。一流の演奏で現代の音楽を聴くと19世紀の音楽が本当に色あせてしまうほどなのだ。この2曲の名演でそれを確信した。
 もうお腹いっぱいだ。このあと、あの手あかの付く程きいた「悲愴」を聞いてこの感動を上回るものはないだろうなと思っていた。しかし、スゴい演奏だった。テンポはやや遅めで、例えば1楽章なども、あのネスカフェのCMで使われる「悲劇の爆発」のところでも、スラトキンは決して音量に寄りかかって演奏しない。それは濃密な魂の心の叫びにこだわるのである。どうして、心の叫びなどという抽象的な言葉を使うかというと、音が胸に突き刺さるからだ。
 N響は一糸乱れない。お互いがよく聞き合っているのだろう。こんな素敵なアンサンブルで芝居ができたら素敵だろうなあと思うとともに、僕は期待を大きく裏切ったカラヤン/ベルリンフィルをこのホールできいた80年代のことを思い出していた。
 あの演奏を遥かに凌ぐものだなあと僕は驚いていた。去年9月のチャイコフスキーの5番をブロムシュテットで聞いた時もスゴいと思ったし、5番ならミュンヘンフィル/チェリビだっけの糞名演も聞いている。80年代にオーマンディ/フィラディルフィア管弦楽団でチャイコフスキーの4番を聞いた時もピチカートに胸を射抜かれたのも覚えている。悲愴もいい演奏は聴いている。そして、今宵の悲愴交響曲の演奏は
忘れられないだろう。いや、コンサート全体を通して驚愕すべきもので、これは世界に誇れる名演奏会だし、NHK交響楽団の演奏会としても特筆すべきものだと思う。
 終楽章の弦楽合奏、あの弦楽セレナーデのような響き。分厚く深いサウンドだった。そして、それは今宵の最初の曲目「フラトレス」に回帰するような印象も受けてコンサートの最後の曲の最後の始まりも今宵全体を締めくくるのに見事だった。
 今宵残念だったのは演奏が終わったあとに訪れた静寂を客席後方からわめき声でぶっ壊す痴れ者がいたこと。ウォーーーーーと数分も叫び続けた。ぶん殴りたかった。

2012年1月28日@NHKホール






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シューベルト Schubert

ピアノ・ソナタ ホ長調 D157 Sonate E-Dur, D157
12のドイツ舞曲 D790 Deutsche Tänze, D790
3つのピアノ曲 D459a Klavierstücke, D459a
ピアノ・ソナタ 変イ長調 D557 Sonate As-Dur, D557
即興曲集 D899 Impromptus, D899



「心に沁み入る理想的な一夜」
 ベルリンフィルやウィーンフィル、超一流オペラハウスの来日公演のような大型の来日公演で3万円とか6万円といったチケット代を払う。家でCDで何回もきいた音楽を生で追体験する。熱狂の大拍手は、この音楽をこの演奏者で生で聞いたという充足感で満たされ熱狂する。それが理想的なコンサートと思っている人が多くないか。いや私もそういうコンサートを心のどこかで求めている事がある。
 しかし、ゲルハルトオピッツのコンサートはそういうコンサートとは趣きが大きく違った。4年に渡って毎年2プログラムづつ、シューベルト作曲のピアノ曲を演奏する連続演奏会の3年目の3回目。オピッツは、協奏曲のソリストとして聞いた事はあるが、ソロコンサートは初めてだ。最後の即興曲集以外は普段聞くような曲でもない。だから、コンサートでこの誠実でドイツ音楽の王道の演奏によって聴衆は音楽と出会う。何と幸せな出会いだろう。ふたつのシューベルト初期のピアノソナタ、舞曲といった音楽を、ひとつひとつの音を異様なほど磨き挙げたり、粒を際立たせたりせずふんわりと大きく包み込むような、普通の演奏を淡々と演奏するオピッツの演奏で出会えたのだから。
 ピアニストのソロコンサートでも、ポリーニやアルゲリッチ、ボゴレリッチ、キーシンといった超人気ピアニストや、ランランを始めとする人気のアジア人ピアニストの演奏と違って、60になろうとするこのオピッツの演奏は良質な普段着の良さがある。おいしく毎日食べても飽きないし安心できる家庭料理というか。
 会場も異様な期待の中で始まるといった趣きではなく、素敵な音楽と普通に出会い心が緩んでいく幸せを感じる事のできる一夜だった。
 これってきっとヨーロッパの地方都市で開かれる音楽会の趣きじゃないのか。どうもパシフィックコンサートマネジメントの演奏会はこのような演奏会が多い。今回も5000円という手頃な価格ということも関係しているのかな。ポリーニのようにソロピアニストの演奏会に25000円という価格は確かに異常だものな。
 無料で配られる簡単なプログラムの最後に来年と再来年のこのコンサートの日程が書いてあった。僕は手帳に書き込んだ。
2011年12月13日 東京オペラシティコンサートホール


Aプロ
マーラー / 交響曲 第8番 変ホ長調「一千人の交響曲」
指揮|シャルル・デュトワ
ソプラノ|エリンウォール(クリスティーネ・ブリューワー代役)
ソプラノ|中嶋彰子(メラニー・ディーナー代役)
ソプラノ|天羽明惠
アルト|イヴォンヌ・ナエフ
アルト|スザンネ・シェーファー
テノール|ジョンヴィラーズ(ポール・グローヴズ代役)
バリトン|青山 貴
バス|ジョナサン・レマル
合唱|東京混声合唱団
児童合唱|NHK東京児童合唱団
ゲストコンサートマスター ダンカンリデル
2011年12月3日@NHKホール
「超満員の観客は喝采した」
 NHKホールの定期演奏会が売り切れることはあまりない。しかし、1ヶ月ほど前には7000枚を越えるチケットは完売しネットではプレミアムチケットとして売買されていた。1500円の自由席が9000円といった具合。僕は2階席のB席できいた。NHKホールの巨大なステージに溢れんばかりの演奏陣。合唱だけで400人くらいはいたんじゃないかなあ。それn140人近いオケのメンバーで1000人とは言わなくても500人を越える陣容だったわけだ。コントラバスだけで12人。ハープが4台。驚くよ。第一部から先ずは合唱の迫力に寄った。代役が多いにも関わらずソリストたちは素晴らしかった。オケはゲストオーケストラマスターにデュトワが芸術監督を努めるロイヤルフィルのコンサートマスターを招いての演奏。きっとこの陣容だから外部のオーケストラからの助っ人も多かったんではないか。オケの演奏に荒さを感じたのは気にし過ぎかな?僕に取ってはもう10年以上前に都響/インバル@新宿文化センター以来の生演奏だ。多くは求めまい。巨大なシンフォニーを聴く楽しみに酔った。
Cプロ

ブラームス / ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 作品77
バルトーク / 歌劇「青ひげ公の城」作品11(演奏会形式)
指揮|シャルル・デュトワ
ヴァイオリン|リサ・バティアシュヴィリ
青ひげ|バリント・ザボ
ユディット|アンドレア・メラース
「どちらも見事なメイン料理でおなかいっぱい。」
 ギトリス、川畠の色も艶も技術もないある意味貴重なバイオリンコンチェルトを聞いたばかりだった事もあったからかもしれないが、バティアシュヴィリの高い技術で艶のある音色、見事なフレージング、重厚というよりはカラフルなブラームスの協奏曲を楽しんだ。3楽章の開放感たるやスゴかったなあ。オーケストラも木管楽器、弦のセクションのアンサンブルも音色も美しく、全体に見事な構成で、ブラボーであった。
 「青ひげ公の城」はブタペストのオペラハウスで実演を観たのが最初だったかな。メトロポリタンオペラハウスでジェシーノーマンの歌で聞いたけれども作品の面白さが伝わったのかというと、良くわかんなかった頃だった。先年のパリオペラ座の来日公演でもみた。そう何度か実演も観たり聞いたりしているのだが、今回ほど胸に刺さった公演はなかった。オーケストラは緻密で重くなりすぎずその色彩美から舞台を心の中に浮かび上がらせる。ユディットのメラースの声は強く、女の芯を見事に演じ唄いきって大満足。人間の業を一枚一枚、剥いでいく見事なドラマがそこに浮かび上がった。ブラボー

2011年12月10日@NHKホール

Bプロ
ヒンデミット / ウェーバーの主題による交響的変容
プロコフィエフ / ピアノ協奏曲 第3番 ハ長調 作品26
バルトーク / オーケストラのための協奏曲
指揮|シャルル・デュトワ
ピアノ|ニコライ・ルガンスキー
「いいのか、ホントにいいのか」
 僕が若いときのN響から今日のようなサウンドを期待できただろうか。ありえない。今宵のオケコンを聞いた時、メータ/イスラエルフィルや小澤/ボストン響できいたのと何の遜色もない見事な演奏に、こんな素晴らしい演奏を日常にきけることに改めて愕然とした。フルートのトランペットのクラリネットの、バルトークの描いたファンタジーをなんて美しく奏でるんだろう!音色は変幻自在に変化していき、この万華鏡のような曲をさらっと演奏してみせた。弦のピアニシモの美しいこと。
 プロコフィエフのピアノ協奏曲。ロシア生まれ、あのタチアナニコライエワ(一度だけバッハを聞いた)の弟子のテクニック抜群のルガンスキーとともにプロコフィエフの世界を作り上げる実力。10年ほど前までN響は海外公演をすると技術はあるけど…と書かれていたが、このドイツものも、フランスものも、ロシアものも、縦横無尽に変化し演奏できる演奏技術はもはや世界のトップクラスのオケと肩を並べるところにきているのだ。
 もはやもっといい指揮者を呼ばねばならぬ。もっと世界のトップクラスの指揮者が指揮をしていいオケになったのだと、喜びを噛み締めたコンサートだった。
12月15日 サントリーホール
キエフ国立フィルハーモニー管弦楽団
ニコライ・ジャジューラ

チャイコフスキー作曲/バイオリン協奏曲(イヴリーギトリス独奏)
メンデルスゾーン作曲/バイオリン協奏曲(川畠 成道独奏)
ドヴォルザーク作曲/交響曲第9番「新世界より」


「砕けていた一流美術品」

 初めて聞くオーケストラは幾つに成ってもワクワクする。特にキエフ、ウクライナという旧ソビエト圏といえどもなかなか聴く機会のないオケで楽しみだった。そして、80才を越え演奏活動を続ける巨匠ギトリス。聞いたことがない。アイザックスターンやヘンリックシェリングといった巨匠に通じるものがあるに違いない。若いバイオリニストと違うものを聞かせてくれるだろうと楽しみにでかけた。
 ギトリスは腰掛けての演奏。バイオリンも支えられないらしくバイオリンを支えるものも登場。それは別にいい。しかし、演奏はミスがあるといったレベルのものではなく酷かった。チャイコフスキーのバイオリン協奏曲を聴く楽しみが全くなかった。醜態である。お金を取って演奏するレベルではない。もちろん、時おり聞こえるフレーズにはかつての栄光の日に聞かせたであろう。ユダヤ系のバイオリニストの持つどでかいスケールも散見されたけれども。吉田秀和なら、これは砕け散った美術品とでもいうんだろう。破片からかつての輝ける頃の演奏を想像しなくてはならなかった。しかし、それにしても、余りにも材料が乏しかった。時おり聞こえるユダヤの民族音楽のメロディ特有の弾き方も誇張し過ぎで気になった。自ら今日はダメだったと、アンコールで浜辺の歌を弾いた。早く引退しなさい。
 メンデルスゾーンを弾いた川畠は視覚障害者である。しかし、アーチストとして聞いてみると今の若い世代のバイオリニストとしては、相当魅力に欠ける演奏しかできていない。線は細くフレージングも単調だ。このバイオリニストをつぶさないためにも今のうちに君の演奏は良くないよと言ってあげないといけないはず。
 特にギトリスの時にはギトリスの揺れるテンポにつきあわされたこの一流とは言えないオケはむしろ好演したと言わねばならないかもしれない。気の毒で。ギトリスの伴奏の際、必死に合わせるという演奏で時おりオケだけになると水を得た魚のようにいいハーモニーも聞かせてくれた。最後に新世界交響曲。20時45分を廻って始まった新世界交響曲は、こちらも集中力が無かったこともあるが、何かメリハリだけで乗り切ろうという演奏でせっかくの日本ーウクライナ国交樹立20周年の演奏会なのに残念な結果となった。こんな演奏は日本のアマチュアオケでも人前にさらさない。2011年12月2日@東京文化会館
シューマン:アラベスク op.18
 SCHUMANN : Arabesque op.18

リスト:ピアノ・ソナタ ロ短調
 LISZT : Sonate en si mineur

ドビュッシー:忘れられた映像
 DEBUSSY : Images oubliées
   ゆるやかに(メランコリックにやわらかく) Lent (Mélancholique et doux)
   サラバンドの動きで Dans le mouvement d'une “Sarabande” 
   きわめて速く Très vite

ドビュッシー:映像 第1集
 DEBUSSY : Images première série
   水の反映 Reflets dans l’eau
   ラモーを讃えて Hommages à Rameau
   運動 Mouvement

ドビュッシー:映像 第2集
 DEBUSSY : Images deuxième série
   葉ずえを渡る鐘の音 Cloches à travers les feuilles
   そして月は廃寺に落ちる Et la lune descend sur le temple qui fut
   金色の魚 Poissons d’or


 「僕はとても好きなピアニストに出会った」
 ベロフは前に聞いたことがあったかなあ。既に名匠なのに、聞いた覚えがない。あったとしても協奏曲だろうと思う。もしかすると、20年以上前にロンドンで聞いたかもしれない。それほどなので、初めて聞いたのも同じ。体調は悪かったがチケット代が事実上S席2000円とディスカウントされていてこれは聞きにいけとの命だと思って聞きにいった。
 ドビッシーの演奏は、僕はやはりミケランジェリのCDと生演奏のことを意識せずにはいられない。ミケランジェリとポリーニ。今日のベロフは二人と違うものだった。ポリーニやボゴレリッチなどで激しいリストも聞いたけれど、今日のベロフはそれも違った。何だろう。見事に掘られたルネサンスの彫刻のようなポリーニやミケランジェリの演奏や、独自の世界に引き寄せるボゴレリッチの演奏とも違ってベロフのピアノはもっと ふわっとしている。
 初めて聞くのにこんなこと言うのはいけないのかもしれないが、自分の感情や感性に従っているような気がしたのだ。構築性といったことよりもその時々の瞬間を信じるというか。ちょっとジャズな感じというのかなあ。これらの曲をきちんと理解しているわけではないのだけれど、生まれてくる感性に従ってみたらこうなったという。そんな気がしたのだ。それはシューマンにも感じられた。

2011年11月26日@すみだトリフォニーホール
ユーリー・テミルカーノフ指揮
サンクトペテルブルグ・フィルハーモニー管弦楽団
2011年10月31日 チャイコフスキー/交響曲第5番 プロコフィエフ/ロミオとジュリエット組曲
2011年11月1日 ロッシーニ/セヴィリアの理髪師序曲 メンデルスゾーン/ヴァイオリン協奏曲 ストラヴィンスキー/春の祭典
2011年11月12日 ラフマニノフ/交響曲第2番 チャイコフスキー/交響曲第4番

今年の秋のクラシック音楽シーン。ベルリンフィル、ウィーンフィルと来日も注目されているが、私が密かに最高に注目しているのが、このロシアの古豪。


「とうとう聞いた。サンクトペテルブルグフィル」
 チャイコフスキーの5番はとてつもなくゆっくりとしたテンポで始まった。速いテンポで一気に全曲を駆け抜けるカラヤンの演奏とは真逆の演奏だ。かといってゲルギレフのように脂ぎった演奏でもない。ロマンチックだしメロディをきちんと唄う。プーシキンやチェホフの戯曲を読んでいるような気がした。それは、プロコフィエフにもいえて、僕はこのオーケストラがレニングラードフィルと呼ばれていた頃の演奏を一度も聞いていないのがやはり残念に思えた。ムラビンスキーは80年代にも来日公演が予定されチケットまで手に入れたのだが、来日中止となってそのまま亡くなってしまった。ソビエトのオーケストラは何度もきいたし、ロシアのオーケストラもオペラもきいてきたけれど、何かね残念。このオーケストラの変化を体感したかったなあ。
 テミルカーノフがレニングラードフィルの第二オーケストラの首席だったとか、いろんな歴史があったのを知ったのも今宵のパンフだったんだけれども、僕がこの指揮者の演奏をきいたのは、何の予備知識もなく、ただニューヨークで、ニューヨークフィルのラッシュコンサートで1時間の演奏会(演奏会後に隣のメトロポリタンオペラも聴けるので、ね)で「春の祭典」を聞いて、わあ、いい指揮者だなあと思ってから。その後、読売日本交響楽団で聞いたのだけれども。その時も良くて。いつかちゃんと聞きたいと思いながらも来日のたびに、他の用事でまったくきけていなかった。5年以上もの片思いがやっと適った。今宵のテミルカーノフは他のオケと違ってすごくリラックスして演奏していたような気がした。
 こうして、初サンクトペテルブルグフィルは、東京文化会館の残響が決して長くない実力が手に取るように分かるホールで聞いたのだった。
2011年10月31日 東京文化会館大ホール

「ポップな曲だった。むしろ、ロックン春の祭典」
 「セヴィリアの理髪師」序曲は凡庸だった。というより集中力もなくふわっと聞いてしまった。「メンデルスゾーンのバイオリン協奏曲」はもちろんオケは悪くないのだが、もう庄司紗矢香の伴奏してるっていうのは言い過ぎだけれど、スゲー音だなあとか感じることはなかった。じゃあ庄司さんの独奏はどうだったか。一楽章は線が細いなあと思ったけれど、2楽章から細やかに唄う。それが3楽章の爆発を呼び起こして、お上手と思った。東洋人ソリストブームだから、ミドリに続いてサヤカも世界中で売れるのだろうか。真っ赤なロングドレスを着た女性は150センチ台で、年齢上に若く見える。廻りの客席で可愛い可愛いとオペラグラスで観るお客樣方。それは、オケのメンバーの暖かいまなざしにも共通するものを感じたな。好かれるってのは強いものだ。好かれるために見栄えってのも大切なんだ。分かってるけどね。
 僕の今宵のメインは「春の祭典」。
 しばらく「春の祭典」思いで話が続くので飛ばして下さい。
 初めて外国で聞いた曲が今から25年以上前のサンフランシスコ交響楽団の定期演奏会でシャルルデュトワ。テミルカーノフを最初に聞いたのも上述したようにニューヨークでのこの曲。この曲はジェケ買いしたのだよね。高校に入って俄然クラシック音楽を聴くようになって、学校の帰り道。荻窪駅の線路沿いに月光社という中古レコード屋があって、お金はないけどとにかく数が欲しい僕は頻繁に利用させてもらったのだ。中古レコード屋は出会いの世界だから日参した。そこで、出会ったのがピーエルブレーズの「春の祭典」と「ペトルーシュカ」、クリーブランド管のレコード。カップリングで2曲聞けてお得。その上、ジャケットがカッコ良かった。レコード選びのときに参考にしていた志鳥さんのクラシックレコード案内本でも推薦してた。ということで購入。買ってみてぶったまげた。何だこの曲は!!!!甘ったるい曲も多いクラシック音楽の中で現代の薫りプンプン。っていうか聞いてて心地よいとこってないじゃん。くらいの衝撃だった。
 高校が中野富士見町にある都立富士高校。地下鉄丸の内線の2つ先には方南町があり、そこに立正佼成会の普門館っていう講堂みたいなホールがあって、当時はクラシック音楽の公演が時々行われた。カラヤン/ベルリンフィルも使ったし、僕が最初に最初にきいた外来オケのコンサート。ボストン交響楽団/小澤征爾/ルドルフゼルキンもここだった。で、高校のときに当時のメディアの寵児でもあった、大家政子さんが、パリオペラ座バレエのチケットを配ってくれたんだ(そのかわし、パリオペラ座のパレエが始まる前になぜか大家政子さんが幕が上がる前の舞台に出て来て何かしゃべってた。今じゃ考えられんわ)。それで「ジゼル」を見た。ポントワがまだ踊っていたはず。その時かその次の来日かで、見ちゃったんだよな。ベジャールの「春の祭典」。面白かったなあ。というのも、コリンヂヴィス指揮アムステルダムコンセルトヘボウ管の「春の祭典」が物凄く話題になっていて、そのジャケ写真がベジャールのバレエの1シーンだったんだよね。で、見たくなったわけ。
 それだけじゃなく、高校3年のときの体育祭の時に、学年対抗の応援合戦をするんだけど、その演出をまかされちゃってさ。なぜか。八岐大蛇に立ち向かう古代日本人の若者っていうのにしたんだけど。まあ、自分でおろちの頭をやって。立ち向かう古代日本人の若者の振付けを自分でやったんだよ。そのときに使った音楽もなぜか「春の祭典」。というわけで、「春の祭典」はなぜか縁があるんだよね。

 で、今宵の演奏なんだけど、おったまげた。というのも、スコアを見てもらうと分かるんだけど、この曲は変拍子とか、転調とか、まあ、リズムの取り方が難しいのであります。それじゃなくても通常の曲よりも大編成のオーケストラで演奏されるし、トロンボーン、サックスを始めとして通常のオーケストラ曲にはない管楽器なども多いので、先ずは拍子をきちんと合わせて演奏するのが大変なはずなんですよ。
 指揮者は細かくリズムを刻み、きっかけを出す。あのイスラエルフィル/ズービンメータで聞いたときも動く動く動く。先年聞いたデュトワ/フィルハーモニア管弦楽団、それは、モントリオール交響楽団の来日でもそうだったけれど、細かく指示するんだよね。見事な演奏でも、合わせてる感がスゴくあるんですよ。
 ところがね、今宵のはそうじゃないんですな。ライブ!これこそライブ!って感じでさ。テミルカーノフはあんまし細かく指示をださない。それよりは曲の根底に流れる変化や流れに指示をだすくらいでさ。それはオケのメンバーが曲もメロディもリズムも身体に染み付いている感があった。ピッチも息もぴたーっとあってて、いや実は1カ所だけ崩れそうになったところはあるが…、いや、思い切りリスクを取って演奏している感じなんだ。ストラヴィンスキーのスコアが変拍子だからでなく、各奏者がそういう風に演奏したかっただけ!みたいな、いま音楽が生まれてるっていうか。
 合わせてるのではなく、各パートが好き勝手に演奏してみたら、たまたまこんなに上手く行っちゃったよみたいなライブ感があるんです。時にテミルカーノフはドライブを掛けにいったりするんだけど、それが小気味いいんだよなあ。オケがぎりぎりのとこに追いやられていくのが分かる。集中力が物凄く高まる。だからもっと合う。全ての音は必然性があって生み出されている。だから、変拍子にも、不協和音にも聞こえない。ジャジーでロックな魂にあふれた「春の祭典」だった。自分は本当にお行儀のいい優等生の「春の祭典」ばかりを聞いて来たんだなあと。いやあ、面白かった。これ一生忘れられないよ。
2011年11月1日  サントリーホール


「豊麗なサウンドの饗宴…でもちょい飽きた」
 初めての文京シビックホール。地下鉄の出口直結で大変便利。そして、ホールの容積がものすごく大きい。音が豊麗になる。内装もシックでとても気に入った。でも東京はいいホールが多すぎる。維持費だけで幾らかかるんだろうと思う。
 さて、秋のテミルカーノフ祭りの大団円である。ラフマニノフは、1時間のこの長大な交響曲を豊かな音量でたっぷり唄ってみせた。ちょっとどきつい仏蘭西料理のような味である。いやロシア料理か。弦のアンサンブルがぴしっと合うのは気持ちいいし、音楽性も似ているか。誰にでも分かりやすい、どこまでも豊麗なサウンド。
 それはチャイコフスキーでも同じで、5番と同じようにゆっくり目なテンポで始まるが途中でメリハリ聞かせて早いテンポになったりね。豊かだなあ。それに、きっとこのサウンドはドイツやフランスの、もちろん日本のオケにも出せない何かがある。
 サンクトペテルブルグフィルを今回3回聞けたのは嬉しかったのだが、豊かなサウンドにちょっと飽きた。嫌いじゃないのに、2週間に3回はあれだって。贅沢だなオレ。2011年11月12日 文京シビックホール
 真の巨匠、最後の巨匠級ピアニスト。アルドチッコリーニ(85歳)が来日してくれる。佐藤治彦にだまされたと思って是非出かけてみて下さい。クラシック音楽をきいたことのない人でも、その深い感動に衝撃を受けるはずです。このお歳です。まもなく永遠に聞けなくなってしまいます。


トーマス・カルブ[指揮]
新日本フィルハーモニー交響楽団[管弦楽]
曲目 モーツァルト/ピアノ協奏曲第20番 ニ短調 K.466
          ピアノ協奏曲第23番 イ長調 K.488
10月27日






「この演奏は幸福感と辛さが入り交じったものだった?」
 モーツアルトの20番コンチェルト。第一楽章はミスタッチが多かった。それはどうでもいい。しかし、オケと微妙にずれていくのはとても残念だった。きっと長いパッセージでの着地の時の微妙なずれが後に響いていくのだと思う。チッコリーニはテンポを微妙に変えることも影響しているのかもしれない。時にテンポにギアを入れるとオケが遅れてしまうのだ。2楽章は淡々と主題を初めてチッコリーニの良さが大変出ていた楽章だと思う。しかし、ここでもテンポの揺れがオケとの微妙なすきま風を感じさせてしまう。チッコリーニのピアノだけ聞いていれば、珠玉の音なのだけれども、協奏曲とすると残念ながら傷ものだ。3楽章は幾分良くなったが、一番聞いていていいのは、各楽章のカデンツアだ。チッコリーニの音だけが響いている時がちゃんと世界として完結しているのだ。
 23番のコンチェルトはずっと良かった。特に2楽章は枯れた味わいが本当に良かった。しかし、今宵の演奏で一番良かったなあと思ったのはアンコールだ。
 スカルラッティのソナタホ長調K380をやってくれたのだが、それはそれは幸福な時間だった。チッコリーニのリサイタル。他の予定をどうしても変更できず行けそうにもない。とても残念だ。きっとリサイタルの方が格段に聞いていていいはずだ。それは、ソロである限り、チッコリーニの世界がそこで完結されるからだ。




2011年10月27日 すみだトリフォニーホール

Aプロ
ブラームス / ドイツ・レクイエム 作品45
指揮|アンドレ・プレヴィン
ソプラノ|中嶋彰子
バリトン|デーヴィッド・ウィルソン・ジョンソン
合唱|二期会合唱団
2011年10月15日 NHKホール
 「プレヴィンを聴く至福」
 プレヴィンはブラームスをくすんだ音に閉じ込めない。レクイエムであってもひとつひとつの音が明瞭で音楽本来の美しさを追求する。そして、それが静謐な音の中で繰り広げられる。二期会の合唱も、ジョンソンらの独唱も素晴らしい水準で、暖かく迫力もありお見事。前にきいたサバリッシュ指揮のフィラディルフィアやバイエルンの演奏よりも心に残る。プレヴィンは昨年は自ら歩いたが今回は歩行器での登場、20センチくらいの指揮台に登るのも大変そうだし、着席での指揮。指揮棒は時おり止まったように見え、若干の戸惑いがオケの中に広がるかとも思えたけれども。破綻はまったくないままだった。プレヴィンとNHK交響楽団との至福な演奏を楽しみたい。

Cプロ
メシアン / トゥランガリラ交響曲
指揮|アンドレ・プレヴィン
ピアノ|児玉 桃
オンド・マルトノ|原田 節

「20世紀の名曲の魅力を明らかにしたプレヴィン」
 日本での初演は50年ほど前でNHK交響楽団だった。プレヴィンがこのオーケストラとの共演を望んだ20世紀の名作は、つい先年に東フィル/チョンミンフンで大いに楽しんだが、この日はさらに深くダイナミズムと何よりも音の美しさに酔いしれた幸せな時間となった。僕はまるで後期ロマン派の曲を聴くときのような陶酔感に浸った。僕は1階のR側の席からきいてピアノの影にプレヴィンの指揮はほとんど見えなかったが、先週のドイツレクイエムと同じように、いやそれ以上にNHK交響楽団はこの老巨匠が晩年になって到達した世界に向き合っていた。そして、僕は思った。この曲は、きっとモーツアルトやラベルと同じように100年後も200年後も演奏される名曲なんだと思った。メシアンは音楽史に残る人なのだ。
2011年10月22日 NHKホール

Bプロ
ショスタコーヴィチ / ヴァイオリン協奏曲 第1番 イ短調 作品77
モーツァルト / 交響曲 第36番 ハ長調 K.425「リンツ」
R. シュトラウス / 歌劇「ばらの騎士」組曲
指揮|アンドレ・プレヴィン
ヴァイオリン|チェ・イェウン
「極上のピアニシモ、最高のモデラート」
 今日のプレヴィン氏の体調はどうだろう。やはり10センチ強の指揮台に上がり下りするのに1分ほどかかる。椅子に座るのは良しとして、中央に真っすぐにすわれない。何か哀しい事を想像してしまう。もしかしたら、プレヴィンとN響を聴く最後の機会かもしれないと。
 1局目のショスタコーヴィッチはソロのチェイェウンの超絶技とダイナミズムに応えオケも若々しく鋭敏な音を発散させた。プレヴィンの醸し出す音楽は衰えていないのだ。そして、「リンツ」と「ばら」。プレヴィンの音楽の魅力のひとつはピアニシモで弦楽合奏をさせること。微妙なトーン、色合いの返歌を彼らに求めること。これはすなわち一流の演奏者がその耳でじっくりと他者の音を聞く事になる。大きな音の中に自らの音を紛れ込ませる事ができない。最新のデリケートな演奏を求めるのだ。その品のいいこと。これは早すぎず、遅すぎず、モデラートな演奏の魅力。これこそまさに王道だ。リンツを聞いていて思い出したのは、僕が高校生のときにきいたブルーノワルターのレコードだ。カラヤンの壮麗さも、ベームの頑強さも受け付けなかった僕が巡り会ったのが、ブルーノワルターの晩年の録音だ。
 せっかく音楽を聴くのなら最低限の音質の良さが欲しい。ブルーノワルターは20世紀の3大指揮者である、フルトヴェングラー、トスカニーニと並んで称される巨匠で、唯一ステレオ録音をした人である。CBSレコードが1950年代の終わりに普及し始めたステレオ録音で高齢のブルーノワルターにレパートリーを録音しましょうと。西海岸にいたワルターのためにハリウッドの映画の伴奏なんかもする人達を集めてワルターの録音の為だけのオケを創設。それがコロンビア交響楽団。そこに録音したモーツアルトやシューベルト、ベートーベン、そしてマーラーの演奏は不朽の録音として愛されている。そして僕もそのひとりだ。例えば田園交響曲を、モーツアルトのシンフォニーを誰かに誰の演奏で聞くのがいいと思う?と聞かれたら迷わずワルターと応える。それは、決して派手でも個性が強いわけでもなく中庸の暖かい演奏をしている。そこに通じるものがプレヴィンにはあるのだ。何か根っこがね、ワルターと共通するような思いがした。
 「ばら」は大抵、あの壮麗な管弦楽のスコアに指揮者もオケも酔って演奏する。それは、エロスの色合いが物凄く濃いわけで、それはそれで聞いていて気持ちいいものだ。しかし、今宵のプレヴィンのそれは、もっと繊細でもっと哀しい音楽だった。元帥夫人がきっと感じているであろう、時代と人生の移ろい行く思い、終わりの始まりを自覚する哀しみの側面が物凄く表現されていたと思うのだ。
 それは、決してフレージングでクレッシェンドもデミニエンドも強烈でなく、モデラートな振り幅の中で揺れ動く繊細な「ばらの騎士」だった。何と言う品格。なんというセンスの良さ。
 アンドレプレヴィン、あなたはミスターミュージックだ!
 どうか、奇跡よ起きて欲しい。また来年の秋に、僕が一年いろんな音楽をきいてあなたの音楽の素晴らしさをもっと分かった段階で、またあなたの音楽に触れたい。
 20代の終わりにあなたのドボルザークやシュトラウス、モーツアルトをロンドンのロイヤルアルバートホールでウィーンフィルと聞いた時、へえ、映画音楽の人がきちんと音楽やるんだ〜くらいにしか感じられなかった。ウィーンフィルだから聞きにいっただけの観客でした。それから、何十年も経って、あなたは僕の傍に来てNHK交響楽団と演奏を聴かせてくれた。でももっともっと聞きたい。どうか、どうか、奇跡よ起きろ。来年も再来年もプレヴィンさんをNHK交響楽団が迎えて素晴らしいコンサートを開いてくれますように。
 

2011年10月26日 サントリーホール

クリストフエッシェンバッハ指揮

2011年10月12日
シューマン作曲 ピアノ協奏曲 独奏ランラン
ブルックナー作曲 交響曲第4番「ロマンチック」
@みなとみらい大ホール

アンコール 
ランラン リスト/コンソレーション2番 ショパン/エチュード作品25−2
オーケストラ ヨハンシュトラウス/美しき青きドナウ

2011年10月19日
ブラームス作曲 悲劇的序曲
シューベルト作曲 交響曲第7番「未完成」
マーラー作曲 「少年の魔法の角笛」から
バリトン;マティアスゲルネ
@サントリーホール

アンコール
マーラー『少年の魔法の角笛』から「不幸なときのなぐさめ」
J.シュトラウスⅡ ワルツ『美しく青きドナウ』 op.314
J.シュトラウスⅡ ポルカ『雷鳴と稲妻』

 

「エッシェンバッハの魅力を再発見」
 ウィーンフィルの来日公演も震災、いや原発問題は大きな影響を与えている。ウィーンフィルのメンバーのことも詳しい人は、既に引退した人なども総動員して今回の来日公演を行った事を記している。それだけに、今回の来日はウィーンフィルの中でも今の日本の現状をふまえて是非来日したいという人だけで構成されていたということを先ずは記しておきたい。今回は2回の演奏会にいった。昨年の来日の後でエッシェンバッハと発表された時には正直がっかりしたものだ。エッシェンバッハの演奏は数年前にパリ管弦楽団との来日で久しぶりに聴いたのだが何の印象も残っていない。僕はエッシェンバッハではなく、マティアスゲルネのマーラー、そして、ウィーンフィルのブルックナー4番が聴きたくて出かけたのだ。
 12日の演奏では、ランランのますます冴え渡るあっけら感としたスケールの大きさに若さを感じたものだ。リストの世界にそのまま身を預けているのは分かるのだが現代の演奏として何を彼が考えているのか分からない。華麗な音楽のエロスを感じる以外に何もなかった。若いころのキーシンと比べてみたが、何か彼にはね、深みというか暗さが若い頃からあった。まあリストのピアノ協奏曲自体はそれほど演奏回数も多くないので良かったんだけれど。さて、ブルックナー4番。エッシェンバッハはテンポを遅めに取る。現代の演奏らしく一音一音大切にしながら進めていくのだが、曲の中に起きる変化の部分は特に慎重にことを進める。面白い。
 それは、未完成交響曲でも同じで、僕はこの曲をウィーンフィルとは1988年のシーズンにカーネギーホールでカラヤン指揮のそれで聴いて、それが特に印象に残っていた。ムーティの来日では聴いたのかな?忘れてしまった。いづれにせよ、今宵のエッシェンバッハのそれはとても印象に残った。極めて遅いテンポで進めるし、緊張感はピアニシモのときから極限となり、それがクレッシェンドになったりすると、解き放たれ感は極限となる。それは聴衆にも圧倒的に伝わってくる。各声部の唄わせ方は極めて丁寧で好感を持った。
 ゲルネとのマーラーも名演で、ここではエッシェンバッハは自らを主張するというよりもゲルネに相当合わせて演奏していように思う。ゲルネの声は、フィッシャーディスカウの知性とヘルマンプライの明るさと、いいところを持ちあわせている感じでじっくりと浸る事ができた。
 2つの交響曲を中心にエッシェンバッハの知性と美感を再発見する印象深い演奏会だった。そして、今回のウィーンフィルの演奏はいつにもなく緊張感を持った演奏会で、震災と原発でどん詰まりのわが国の聴衆を大いに慰めてくれたと思う。アンコールのウィンナワルツも含めて心から感銘を受けた演奏会だった。来年も来てくれるのかな。
マルクヤノフスキ指揮
ベルリン放送交響楽団演奏会

ブラームス交響曲第3番/第4番

 「太陽の下にさらされたブラームスのロマンチック」
 ポーランド出身のヤノフスキの評判が極めていい。この1939年生まれのポーランド出身の指揮者も72才となり円熟の時期を迎えたのか。僕は何回か聞いているのだがあまり記憶がない。昔、ワーグナーの録音がいいなあと思ったくらい。1階の本当にいい席を手に入れたのに今宵も遅れてしまい後半の交響曲4番とアンコールのロザムンデ間奏曲を聞けただけ。残念。それでも十分にこの指揮者の魅力は伝わったと思う。数年前にベルリンフィルがサイモンラトルとサントリーホールでブラームスの4つの交響曲を披露した。それが何の印象も残っていない。すごい演奏でも心に残るそれではなかった。ベルリン放送交響楽団はベルリンの中でも3番手4番手のオケである。それが何と魅力的な演奏をしたことか。飛び抜けているのはくっきりと踏んでいくリズムと全体の「ノリ」ブラームスをくすんだ曇り空の下に閉じ込めずに明るい太陽の下に曝した感じだ。2楽章の弦のピチカートが活き活きと響いたかと思うと、たっぷりとレガートを楽しませてくれて、チェロへフルートへ紡がれていく。美しい弦楽合奏の喜び。幕切れまで緊張感を持ったまま聞かせてくれた。ああ、ブラームスっていいなあと久々に思った。オーケストラが素晴らしいシェフを持つといい演奏をする典型だ。ヤノフスキ。また聞いてみたい。

2011年10月14日 オペラシティコンサートホール
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